板垣退助とは?政党運動や暗殺、子孫や名言について解説!

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「板垣死すとも自由は死せず」

明治15年、現在の岐阜市を遊説中に暴漢に襲われた時に叫んだこの言葉が、彼を日本の民主主義の象徴へと押し上げていきました。

彼の名前は板垣退助、土佐(現在の高知県)出身のいごっそう(土佐弁で頑固で気骨のある男)は武田信玄の宿将で武田四天王の一人であった板垣信方(いたがきのぶかた)を先祖に持ちます。

戊辰戦争ではたぐいまれなる軍才を発揮、明治維新後は参議として活躍したのち、自由民権運動などの政党運動に身を投じて国会開設に尽力、自由党を結成し政党政治の幕を開けました。

坂本龍馬の親類で100円札最後の肖像画となった板垣退助の人生を、暗殺、子孫や名言についても含めて振り返ってみました。

板垣退助の誕生から青年期

天保8年4月17日(1837年5月21日)土佐藩士・乾正成(いぬいまさしげ)、の長男として高知城下中島町(高知県高知市)で誕生、幼少期は相当な腕白でほぼ毎日喧嘩して家に帰っていたそうです。

別名・土佐居合(とさいあい)と言われる無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)を使い、柔術は呑敵流小具足(どんてきりゅうこぐそく)を学んでいます。

学問は昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ・江戸幕府直轄の教育施設)の教官も勤めていた若山勿堂(わかやまぶつどう)から儒学、山鹿流兵学を学んでおり、当時の最高峰の学問の系譜に学んでいました。

慶応元年(1865年)には、洋式騎兵術修行の藩命を受けて、江戸でオランダ式騎兵術を学んでおり、和洋両方の戦術や軍制に知識がありました。

乾退助(改名前のため乾と名乗っていた)は土佐藩上士には珍しい勤王攘夷派で、なおかつ武力討幕派でした。このため戊辰戦争ではこの学んだ知識の全てを注ぎ込んで徳川幕府軍を追い詰めます。

 

板垣退助の倒幕活動と戊辰戦争

乾退助は武力討幕のために出来ることならなんでもやりました。

脱藩の身であった坂本龍馬や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)ら藩外にいた倒幕派の赦免に奔走しこれを為し遂げ、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)や福岡藤次(ふくおかとうじ)ら土佐藩内の実力者とも倒幕に関して何度も議論を重ねていました。

1867年には中岡慎太郎の仲介で京都の薩摩藩家老職・小松帯刀(こまつたてわき)邸において西郷隆盛(さいごうたかもり)らと会談し、倒幕のために薩土同盟を締結します。

薩土同盟締結を山内容堂(やまうちようどう)に報告すると銃300丁を購入し、島村雅事(しまむらまさこと)ら土佐勤王党の残党を赦免、大監察として藩の軍制改革に着手します。

 

人心掌握のために姓を変える

鳥羽伏見の戦いでは消極的参戦であった土佐藩も、戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ迅衝隊(じんしょうたい)を乾退助が率いて東山道先鋒総督府の参謀として従軍し、甲州攻略、甲府城掌握が目的だったため、甲斐源氏の流れを汲む板垣の末裔であることを誇示して人身掌握するために乾から板垣に姓を変更したのでした。

この策が功を奏したのか甲州勝沼の戦いで、近藤勇率いる新撰組を撃破、武蔵国でも旧武田家臣が多い八王子千人同心の懐柔に成功しました。

明治新政府での活躍と自由民権運動

江戸から東北へ転戦してもその活躍は留まるところを知らず、三春藩、二本松藩、仙台藩、会津藩を次々と攻略、1868年には土佐藩陸軍総督となり軍人としての才能を開花させました。

板垣退助は軍略に優れただけではなく、敗軍である会津藩やその他の幕府軍に属した諸藩の名誉回復に奔走し、多くの人が板垣退助に感謝したと伝えられています。

戊辰戦争終結後の明治2年に西郷隆盛らと参与に就任、翌3年高知藩の大参事、明治4年には参議となり、明治新政府の首脳の一人となりました。

 

明治六年の政変で西郷と共に下野

しかし、明治六年政変で西郷隆盛らとともに下野すると、土佐出身の官僚や軍人らとともに自由民権運動を開始、明治7年(1874年)に愛国公党を結成、後藤象二郎らと民撰議院設立建白書を提出、高知に立志社を設立と矢継ぎ早に行動をおこし、大阪会議で大久保利通らと立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立で合意し、参議に再就任します。

しかし半年後には板垣退助と木戸孝允の対立が決定的となり参議を辞職、再び議会制民主主義を目指して自由民権運動に参加、明治14年の国会開設の詔(10年後の帝国議会開設と帝国憲法の制定を約束)が出たのを契機に自由党を結成し、総理(党首)就任しました。

 

板垣退助の暗殺未遂事件と名言

自由党の党首として全国を遊説してまわり党勢を拡大していた明治15年(1882年)4月、岐阜滞在中に相原尚褧(あいはらしょうけい)に襲撃され負傷。(岐阜事件)

この時に板垣の有名な名言である「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだと言われていますが、「吾死するとも自由は死せん」であったとか、板垣退助本人は「驚いて声もでなかった」と語るなど真偽は不明ですが、この言葉と彼の自由民権運動に賭ける思いがこの言葉とともに板垣退助を自由民権運動の英雄へと祭り上げていきます。

しかし、明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で起きた栃木県令・三島通庸(みしまみちつね)等の暗殺未遂事件(加波山事件・かばさんじけん)によって自由党の幹部であった内藤魯一(ないとうろいち)らが逮捕され、その責任を取る形で板垣退助は自由党を一旦解散します。

 

悲願の帝国議会開設と政党政治の実現

帝国議会開設に備えるため林有造(はやしゆうぞう)らとともに高知で再び愛国公党を結成、帝国議会開設後には河野広中(こうのひろなか)や大井憲太郎(おおいけんたろう)らが率いる各派を統合し立憲自由党を設立、1891年に自由党と改称して復活させました。

その後は伊藤博文率いる伊藤内閣や松方内閣で入閣、明治31年(1898年)には大隈重信との進歩党と自由党を合併して憲政党を組織し、日本で最初の政党内閣である大隈内閣を誕生させました。

内務大臣として板垣退助も入閣したため、この内閣は隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれましたが閣内対立が激しく、この内閣は4ヶ月で崩壊し総辞職となり、板垣退助は明治33年(1900年)立憲政友会の成立とともに政界を去りました。

板垣退助の子孫

政界引退後は華族の世襲禁止の活動や台湾との友好を民間レベルで行ったりしましたが、大正8年(1919年)7月16日享年83(満82歳)でこの世を去りました。

板垣退助には妻が五人(正妻と継妻が四人)、子供も息子が五人と娘が五人いました。

 

長男・鉾太郎(ほこたろう)

長男・鉾太郎(ほこたろう)は高知県に私立学校泰平学校を設立した教育者、次男・正士(せいし)は庶長子ではありましたが乾家の養子となり、近衛師団に入営し台湾出兵に従軍、退役後養蚕業に従事。

 

孫・守正(もりまさ)

板垣退助の孫に当たる鉾太郎(ほこたろう)の次男・守正(もりまさ)は事もあろうに板垣退助が作った自由党の後継政党である政友会の政敵である立憲民政党に入党し、板垣の家から勘当されると言う世間を巻き込んだ大騒ぎを起こしています。

 

板垣退助の逸話

板垣退助は自由民権運動の英雄として100円札最後の肖像画として描かれ、国会議事堂の中央広間の四隅に銅像の台座があり、大隈重信像、伊藤博文像、そして空の台座とともに板垣退助の像も置かれており、中江兆民(なかえちょうみん)は「板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残した」と語っています。

武市半平太(たけちはんぺいた)の指示で自分の暗殺に来た中岡慎太郎と意気投合し暗殺を思い止まらせたり、自分を襲撃した相原尚褧の特赦嘆願書を明治天皇に提出したりと、非常に人間的にも大きな器であったことが伺えます。

政治家よりも軍人としての才能が豊かであったことは彼の生涯を見れば誰にでもわかることで、小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は板垣退助が軍人として大成しなかったのは、功績経歴が西郷隆盛並みで、長州の山県有朋より上位になってしまうが、土佐藩に板垣退助をそこに据える力がなかったため政治家にされてしまったと述べています。

 

板垣退助まとめ

人間としての器が大きく、公明正大を人生の教訓とし、部下や同僚に愛された板垣退助は自由民権運動に身を投じたことは本意ではなかったかもしれません。

しかし、彼ほどの人物が自由民権運動の旗頭となったため、政府もこれを無視することが出来ず、帝国議会の開設と帝国憲法の制定へと道筋をつけたとも言えます。

その意味で言えば、やはり板垣退助こそ日本民主主義の父であったのだと言えるのではないでしょうか。