後藤象二郎とは!子孫や坂本龍馬との関係についても解説!

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幕末の大政奉還を語る上で、坂本龍馬、土佐藩主・山内容堂(やまうちようどう)、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は外す事のできない存在です。

土佐藩士として、明治の政治家として生きた後藤象二郎とはどのような人物だったのでしょうか。家族や子孫はどのように明治以降生きたのでしょうか。

また、大政奉還前に坂本龍馬と行動を共にしていますが、後藤象二郎と坂本龍馬の関係はどうだったのでしょうか。大変興味深いところです。

後藤象二郎という人物像を追いながら、詳しく解析し説明していきます。

後藤象二郎の生涯とは

土佐の天才、吉田東洋(よしだとうよう)に育てられる

後藤象二郎は、1838(天保9年)土佐藩上士・後藤正晴(ごとうまさはる)の長男として高知城下に生れました。しかし、後藤象二郎11歳の時に父を亡くし、義理の叔父である吉田東洋に育てられます。

叔父・吉田東洋が開いた鶴田塾(少林塾)で学問を学び、柳河藩士の大石種昌(おおいしたねまさ)に大石神影流剣術を学び、17歳の時に吉田東洋の仲介で親戚筋より最初の妻を娶りました。

叔父・吉田東洋は藩主・山内容堂の絶大な信頼で大目付・参政となり幕末に土佐藩を雄藩に牽引した土佐の天才と言われた人物で私塾である鶴田塾(小林塾)では、後藤象二郎の他に明治の世でも活躍する板垣退助(いたがきたいすけ)、福岡孝弟(ふくおかたかちか)、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)などを輩出しており、さながら土佐の吉田松陰です。

後藤象二郎は、吉田東洋という優れた叔父のおかげで英才教育を受けて育ちました。

 

叔父・吉田東洋が暗殺される

富国強兵、開国貿易、公武合体などを推進した叔父・吉田東洋が土佐勤王党に暗殺されると、後藤象二郎含め吉田派は失脚しました。

職を解かれた後藤象二郎は江戸へ向かい、幕府の開成所(現東京大学)で英語や航海術を習得します。

 

藩政復活と土佐勤王党の粛清

安政の大獄ので隠居していた藩主・山内容堂が井伊直弼暗殺を受けて隠居を解き、事実上藩政に返り咲き実権を握ります。

後藤象二郎は岩崎弥太郎と藩政に関する意見書を藩主・山内容堂に提出し信頼を獲得、大監察に抜擢され藩主・山内容堂の命を受けて土佐勤王党の弾圧に乗り出し、武市半平太を切腹させ土佐勤王党の粛清をしました。

 

土佐藩参政として藩の財政改革を推進する

後藤象二郎は藩主・山内容堂の信頼を確固たるものにし参政に任命されました。

吉田東洋に学び、開成所で学んだ知識や経験を活かし経済政策を推し進めます。

産業、貿易に力を入れ、殖産、教育などを兼ねた開成館を設立、上海視察なども行い岩崎弥太郎を土佐商会主任兼留守居役に抜擢して長崎に配置し、土佐の産物を長崎や大阪で売買して人材の育成や技術の導入を図ろうとしました。

 

坂本龍馬と意気投合

参政として土佐藩の財政改革、富国強兵を図るもなかなか難しく、同じ頃長崎で亀山社中を作り活躍している元土佐藩士の坂本龍馬を知ることとなり接触します。

土佐勤王党の粛清など思う事もそれぞれにありましたが、会談で意気投合してからは頻繁に会う存在となり、3か月後には坂本龍馬の脱藩を免じて、藩の機関として海援隊の隊長として坂本龍馬を任命しました。

 

船中八策と薩土同盟

後藤象二郎は藩主・山内容堂から京に呼ばれ長崎から土佐藩船「夕顔丸」で出向、共に乗船していた坂本龍馬から大政奉還論を山内容堂に進言するため、政治綱領(船中八策)を提示されます。

藩主・山内容堂はすでに京から帰郷していた為、この船中八策を持って在京土佐藩首脳陣に大政奉還論を解き賛同を得、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)、小松帯刀(こまつたてわき)、大久保利通(おおくぼとしみち)と会談、「薩土同盟」を締結しました。

 

薩土同盟解消も独自路線で大政奉還論を進める

後藤象二郎は土佐に帰り藩主・山内容堂に大政奉還論を提言し賛同を得ますが、藩主・山内容堂から出兵だけは難色を示された事と、イカルス号事件の処理でイギリス公使パークスとの交渉に時間を取られた事で、ズレや思惑が生じ「薩土同盟」は解消されてしまいます。

しかし、同盟解消後も後藤象二郎は独自に奔走し藩主・山内容堂の説得にも成功して、藩主・山内容堂と連盟で大政奉還建白書を幕府へ提出したのです。

この建白を受けて徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、大政奉還を行いました。

この一連の論功により、後藤象二郎は栄進して中老格となり1500石の加増となります。また、イギリス公使パークスの暗殺を防いだ事により、ビクトリア女王から宝刀を贈られます。

 

明治維新後、新政府で数々の要職につき活躍

明治新政府より後藤象二郎は明治維新の功により、賞典禄として1000石を賜り、参与に任命され、大阪府知事など要職をいくつか歴任しましたが、征韓論で敗れ辞表を提出し、西郷隆盛、板垣退助らと共に下野します。

その後、板垣退助らとともに愛国公党を組織、民撰議院設立建白書を提出し、大同団結運動を提唱しました。

党派を超えた活躍をする政治家で伯爵も授けられ、逓信相・農商務相を歴任しますが、収賄事件の責任を取り辞職し政治生命を終わらせることとなります。

晩年は心臓病で療養していましたが1897年(明治30年)60歳で病死しました。

坂本龍馬との関係

子供時代は面識なし

坂本龍馬の小説や、ドラマなどで幼少期や少年期に偉そうにする後藤象二郎が描かれている場面がありますが、実際には長崎で会談するまでは面識が無かったというのが事実のようです。

 

後藤象二郎と坂本龍馬の出会い

後藤象二郎は参政として藩の財政改革に取り組むも開成館も起動に乗らないので方向転換として外の組織を利用して改革できないかと模索していました。

その折に、元土佐藩士で亀山社中を興し、活躍する坂本龍馬の存在を認識して接点を持とうと考えます。そこで、坂本龍馬と接点のある土佐藩士・溝淵 広之丞(みぞぶち ひろのじょう)を仲介人として坂本龍馬を酒席に招待したのです。坂本龍馬も船の沈没などで経営が順風満帆ではなく、藩などの大きな力が必用でした。

土佐勤王党の粛清があり、「後藤斬るべし」という仲間もいましたが、それ抑え、後藤象二郎の酒席に臨みました。

後藤象二郎という人物は会ったり付き合いのある人は、実に人が良く豪傑と評価していて、坂本龍馬も姉への手紙に「中岡慎太郎(なかおかしんたろう)も人が良いが、それ以上に後藤象二郎は人が良い」と書いているほどです。

 

意気投合する

二人は意気投合してお互いを認め合い、その後坂本龍馬の脱藩も許さることとなり、土佐藩下で海援隊隊長となり、坂本龍馬から大政奉還論を聞いて賛同した後藤象二郎が大政奉還論を藩主・山内容堂に提言するまでになります。

土佐勤王党の粛清や武市半平太の切腹などがありましたが、過去は水に流し手を携えようとお互いに心が通った間柄だったようです。

 

後藤象二郎の子孫

後藤象二郎は生涯で二人の妻を娶ります。一人目の妻は磯子、二男二女(一人夭折)を授かりますが磯子は若くして亡くなってしまうのです。

二人目の妻は芸者・雪子で、明治維新の翌年に娶り二男四女(二人夭折)を授かりました。

この二人の妻との間にできた子供達と、後藤象二郎の子孫で有名な人物を抜粋して紹介していきます。

 

磯子との間にできた子供

次男・後藤猛太郎(ごとうもうたろう)

長男が夭折したので猛太郎が後藤伯爵家を継ぎ、貴族院議員・伯爵となりました。

日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長で「天下のならず者」と自称しています。

 

長女・早苗

三菱財閥2代目総帥・男爵・岩崎弥之助(いわさきよのすけ)の妻。

 

次女・小苗

大江卓(おおえたく)衆議院議員・社会運動家の妻。

 

雪子との間にできた子供

三女・五女・六女と男爵、士族、海軍設計技師などに嫁いでいます。

 

後藤象二郎の孫で有名な人物

後藤 保弥太(ごとう やすやた)

北濃鉄道株式会社の初代社長。

 

川添紫郎(かわぞえしろう)

各界著名人が利用するレストランとして知られ、キャンティ族という流行語ができたキャンティ(CHIANTI)イタリア料理店の創業者。

 

岩崎小弥太(いわさきこやた)

三菱の4代目総帥。

 

岩崎俊弥(いわさきとしや)

旭硝子の創業者。

 

岩崎輝弥(いわさきてるや)

膨大な鉄道写真を撮った鉄道ファンのパイオニア。

 

後藤象二郎の曾孫で有名な人物

犬養康彦(いぬかいやすひこ)

共同通信社で1991年~1998年まで社長を歴任。

 

岩﨑 英二郎(いわさき えいじろう)

日本のドイツ語学者で慶応義塾大学名誉教授。

 

川添 象郎(かわぞえ しょうろう)

IMOなど多数のアーティストを手掛けた音楽プロデューサーですが、薬物取締法違反などで複数回逮捕歴があり、良い意味でも悪い意味でも有名です。