中岡慎太郎の生涯とは?暗殺や子孫、名言について解説!

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幕末の土佐出身の志士で有名な人物は?と聞かれれば、まず第一に上がるのは坂本龍馬なのは間違いありませんが、その次は?となれば、この人中岡慎太郎の名前が上がるのではないでしょうか。

坂本龍馬が武力討幕から距離をおいた道を歩んだのに対して、中岡慎太郎は土佐勤王党に参加したり、禁門の変や下関戦争に参戦するなど、『討幕のために、“戦”の一字あるのみ』と徳川幕府に対峙する立場を取り続けた、筋金入りの志士としての道を歩んだ人物です。

中岡慎太郎が選んだ道とは、どのような道のりだったのでしょうか。

中岡慎太郎の生い立ち

1838年5月6日、現在の高知県安芸郡北川村の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた中岡慎太郎は19歳で結婚。

23歳で剣術を習っていた武市半平太(たけちはんぺいた)が結成した土佐勤王党に参加し、攘夷志士の人生をスタートさせます。

長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵や松代藩の佐久間象山と交わるうちに国防や政治についての知識を高めていき、土佐藩での攘夷志士弾圧が始まると、すぐに脱藩して長州へと亡命します。

公卿・三条実美の衛士(警護官)に迎えられ、長州に亡命している脱藩志士のまとめ役となります。

この後は島津久光暗殺を謀ったり、禁門の変、下関戦争に参加して武力に頼った政治改革を目指しますが、雄藩の対立や志士の弾圧、長州藩への圧力などを見たり感じたりするうちに尊皇攘夷主義だけでは無理なことを悟り、雄藩連合による倒幕へと路線を変更します。

 

坂本龍馬と共に薩長同盟を成立させる

雄藩連合による倒幕に舵を切った中岡慎太郎は雄藩の中でも最大の実力と倒幕の考えを持つ雄藩・薩摩藩、長州藩を軍事同盟で結びつけるべく活動を始めます。

そしてこのとき長崎にいて全く同じ薩摩、長州の連合を考えていた人物である坂本龍馬に出会います。

龍馬は中岡慎太郎と同郷の土佐出身で同じ脱藩浪士でしたが、龍馬はすでに海援隊の前身となる亀山社中を設立し、雄藩の間では名の知られた人物となっていました。

中岡と坂本龍馬は手分けをして薩摩、長州の有力者を説得し、1866年3月2日に薩長同盟を成立させます。

翌年、坂本龍馬とともに土佐藩から脱藩の罪が赦免されると、今度は土佐藩のために薩土同盟成立を画策し、西郷隆盛や小松帯刀と後藤象二郎,福岡孝弟らの手を結ばせることに成功し、その後、薩土同盟は安芸藩を巻き込んだ薩土芸三藩約定書へと発展しました。

 

武力討伐は叶わず、大政奉還へ

薩摩,土佐,安芸三藩の同盟締結に合わせて、中岡慎太郎は京都を本拠にした武力討幕集団・陸援隊を結成し、尊皇思想を持つ脱藩浪士を中心に70名余が参加、支援隊である十津川郷士らを合わせると100名を遥かに越える大所帯となる戦闘集団を誕生させました。

しかし、時代の流れは中岡の考えとは別の方向へ進み始めます。

土佐の後藤象二郎,安芸の辻将曹(つじしょうそう),薩摩の小松帯刀らによる武力倒幕一辺倒の主戦論とは大きく異なる大政奉還に将軍・徳川慶喜が同意し、事実上、徳川幕府は幕を閉じたのです。

 

中岡慎太郎の暗殺

今後の新政府の人事をどうするか、政策をどのように行うか新たな模索が行われるなかで、1867年12月10日、京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問し、今後の動静を懇談している最中に襲撃されました。坂本龍馬はその場で即死、中岡慎太郎は瀕死となり二日間生き延びましたが、12月12日、息を引き取りました。(近江屋事件)

当初は、新選組による犯行との見方が強く、実際に海援隊士、陸援隊士らは事件後に京都油小路の天満屋で新選組と争った経緯がありますが、新選組犯行説は証拠も証言もほとんどなく根拠も曖昧でした。

しかし、1870年見廻組隊士だった今井信郎が坂本龍馬、中岡慎太郎襲撃を供述し、現在は京都見廻組与力・佐々木只三郎を筆頭に7人が襲撃実行犯とされています。

中岡慎太郎が遺したもの

彼が結成した陸援隊はその死後、田中光顕,谷干城らの指導のもと戊辰戦争に参戦、紀州藩を牽制する役を与えられるなど活躍し、明治新政府誕生後は御親兵(天皇および御所の護衛を目的とする、のちの近衛兵団)に吸収されました。

また大政奉還によって水泡に帰したかに見えた坂本龍馬、中岡慎太郎が画策した薩土同盟と薩土芸同盟は、鳥羽伏見の戦い勃発後の一連の戊辰戦争に土佐が主力として参戦とする契機となったことは間違いなく、また同盟が結ばれたことによって土佐藩内で藩政改革や軍制改革が行われ、近代的な軍隊を持つ先進藩として維新を迎えることができたことは紛れもない事実です。

 

中岡慎太郎の子孫

1921年東京駅で時の首相であった原敬を刺殺した中岡艮一(なかおかこんいち)が中岡慎太郎の孫だというと話がちまたに流布したことがありますが、これは中岡艮一の父・中岡精と実子のいなかった中岡慎太郎の養子となった中岡照行とが混同されてしまい、誤って伝えられたためです。

中岡艮一も土佐の出身だそうですが、中岡慎太郎とは全く関係のない人物です。

直接の関係はありませんが、中岡慎太郎の実姉・縫の夫・川島総次(野根山二十三士の一人で斬首されました。)の末裔が劇団ひとりさんだそうです。

 

中岡慎太郎の名言

坂本龍馬の平和的な政権交代とは違い、徳川幕府の武力討幕に人生のすべてを賭けた中岡慎太郎はこのコラムの冒頭にも書いた『討幕のために、“戦”の一字あるのみ』以外にも名言を残しています。ここに2,3紹介しておきます

 

名言①

涙を抱えて沈黙すべし、他に策なし 

清岡道之助をリーダーとする土佐藩の同士23名(野根山二十三士)が藩に対し「藩政改革,攘夷,武市瑞山の釈放」の嘆願書を提出。しかし当時の大監察の後藤象二郎はこれを黙殺し、全員を斬首としました。

この悲報を聞いた中岡慎太郎が土佐の同士に送った手紙に書かれた言葉です。

 

名言②

大君の辺にこそ死なめ大丈夫 都はなれて何か帰らん 

【意味】国家のために死ぬる覚悟は出来ています。この大事な時に故郷(土佐)には帰れません。

 

中岡慎太郎が禁門の変に出陣する時に、実家に送った遺書の一部です。

 

名言③

謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。 

 

さいごに

弱冠29歳にして暗殺というテロ行為によってこの世を去ることになった中岡慎太郎。

その頭の中に描かれていた未来の日本の姿とはどのようなものだったのでしょうか?

その答えは今となっては永遠の謎ですが、確実なことは室戸岬に立つ中岡慎太郎の銅像が、桂浜に立つ坂本龍馬の銅像とともに日本の将来を見守っているということです。