坂本龍馬はいくつもの偉業を成し遂げますが、結果的に幕末末期にはさまざまな方面から命を狙われ、大政奉還後、王政復古の大号令を待たずして暗殺されてしまいました。
この龍馬暗殺が「近江屋事件」と呼ばれるものです。
維新後に暗殺者として自供した人物がいても尚、他に真犯人説が噂されているのはなぜなのでしょうか、謎は深まるばかりです。
いくつかの説を紐解きながら、近江屋事件において暗殺された場所や暗殺の状況、暗殺者や黒幕と言われている人物などを解説していきたいと思います。
坂本龍馬について
土佐藩城下に生まれた幕末の人物で、脱藩して江戸へ上京し、勝海舟に弟子入りします。その後は海軍操練所塾頭となり、亀山社中、海援隊、薩長同盟、大政奉還などに関わり、幕末のキーパーソンとして活躍した現代の日本人にも大変人気がある人物です。
中でも薩長同盟の周旋と大政奉還の成功という偉業は龍馬なしでは語る事ができず、新国家体制のために新政府綱領八策を起草するなど新しい時代のために精力的に活動しました。
残念ながら明治維新という新しい世を見ることなく志半ばで暗殺されてしまいました。
坂本龍馬が暗殺された場所
坂本龍馬は、薩摩藩の定宿である寺田屋が急襲されたため、滞在場所を近江屋へ移します。
この近江屋こそが龍馬が暗殺される最後の場所となったのです。この近江屋が暗殺事件の由来となっているのですね。
当時、命を狙われていることを龍馬も周りの者達も承知していたので、土佐藩邸か薩摩藩邸に入るように勧めます。
しかし、土佐藩邸は家老が難色を示していることと、龍馬自身2度の脱藩を許された経緯があり、遠慮をして入りませんでした。
また、薩摩藩邸には、土佐藩に対して当てつけのようになると遠慮して、結局近江屋へ身を置いていたそうです。
坂本龍馬暗殺時の状況
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は風邪をひいていた為、普段使っていた土蔵から、母屋の2階に移動していました。
その日は2回ほど出かけた後、中岡慎太郎・岡本健三郎が訪ねてきます。また、元力士で用心棒の山田藤吉も向かいの部屋でいました。
夕方になり、身体を温め栄養を取りたいと考えたのか、菊屋峰吉に軍鶏を買ってくるように言いつけ、岡本もその機に近江屋をでます。
残った龍馬と中岡は火鉢を囲み話込んでいた所、十津川郷士(または松代藩士)を名乗る客が訪れました。
藤吉は取り次ごうと2階に上がりますが、背後から斬りつけられ殺されてしまい、その物音に藤吉がふざけていると勘違いした龍馬は「ほたえな!(騒がしくふざけるな)」と怒鳴ったと言います。
その声を頼りに、2階に上がり込んだ刺客3人がふすまを開けて部屋に侵入し、座していた龍馬と中岡を襲いました。
侵入と同時に額を斬りつけられた説、「龍馬先生」と尋ねられてから斬られた説、浪士が名刺を渡してから斬りつけた説と諸説ありますが、どちらにしても剛剣の龍馬ですらまともな応戦ができる間もなく、即死に近い状態で斬りつけられます。
一緒にいた中岡慎太郎は屏風に刀を立て掛けていたため、脇差しの短刀で鞘から刀を抜く間もなく防戦し、一時は好物の焼きめしを食べるまでに回復しましたが、傷が深かったために亡くなりました。
この中岡の二日間の生存のおかげで、龍馬の最後の証言が得られたのです。
暗殺者や黒幕について
学術的に確定している暗殺者は新撰組?
この暗殺事件の犯人として最初に疑われたのは新選組でした。
中岡慎太郎に刺客が切りかかる際、「こなくそっ」と四国訛りで斬りかかったという証言がある事と(土佐出身の谷干城の証言とも言われてる。)、現場に落ちていた蝋色の鞘から、暗殺者は伊予出身の新選組隊士、原田太之助ではないかと言われています。
また、北辰一刀流の達人である龍馬を襲撃できる実力者として、斎藤一も候補に挙げられています。
紀州藩の報復?
龍馬の暗殺はいろは丸事件の賠償に関する紀州藩の報復であるとも考えられています。
実際、陸奥宗光は龍馬を暗殺した黒幕が紀州藩士・三浦休太郎と思い込み、海援隊の同志15人と共に、天満屋で酒宴をしていた三浦を交えた護衛の新選組隊士7名を襲撃する事件を起こしています。
本当の黒幕は会津藩
しかし、1870年(明治3年)、元見廻組隊士だった今井信郎が箱館戦争にて降伏し、龍馬の暗殺事件に関与したと自白したことで裁判にかけられ、禁固刑となりました。
大正時代に入り、今井以外にも元見廻組隊士の渡辺篤が犯行に関して証言をし、現在までの調査などで、実行犯は佐々木只三郎、今井信郎、渡辺篤、小太刀の名人・桂隼之助、世羅敏郎だとされています。
命令したのは京都守護職の会津藩主・松平容保で、直接指示したのは容保の実弟である桑名藩主・松平定敬だと推測されています。
実行した暗殺者は今井信郎
現在学術的には、この見廻組隊士だった今井信郎が実行犯であることが一番有力で、刑に服していることもあり確定している事実となっています。
ただし、いくつかの細かい部分に食い違いがあるのと、残されていた鞘の問題があることから、頑なに新選組説を信じる者もいます。
そのため、暗殺者が完全に確定するには至らず、当時の龍馬は多方面から命を狙われていたことから、それが様々な憶測を広げる土台となり、真犯人説と黒幕説は現在に至っても未だ語られる原因になっているのです。
龍馬暗殺の主だった諸説
今までに幾つもの小説やドラマ、書籍などで展開されてきた仮説、諸説の黒幕や犯人説を紹介していきます。
①土佐藩説
龍馬の活躍を快く思わない上士や、大政奉還の功労を独占しようと後藤象二郎と手を組んだ下士などの両方の勢力だという説です。
②薩摩藩説
武力倒幕を目指していた西郷隆盛・大久保利通らと、大政奉還で柔軟に新体制へと移行させ徳川慶喜を残す考えの龍馬との相違が生じ、西郷隆盛・大久保利通薩摩藩士達は、龍馬の動きを看過できなくなり暗殺に関与したという説。
③徳川幕府説
池田屋事件後に老中が龍馬の存在を知り、龍馬には幕府の密偵がついていたと言います。
勝海舟も徳川幕府上層部の指示があったと推測し、松平春嶽の暗殺に関わる覚書などにも慶喜の側近の名前が記されていたこともあり、龍馬の動きに脅威を感じ、危険人物と位置づけた徳川幕府上層部の暗殺指示説。
④外国説
武力倒幕で内戦を予測し、薩長倒幕側に武器の売り込みを計画していた死の商人と呼ばれたグラバーが、龍馬によりスムーズに大政奉還がなされ武器が売れなかったことにより商売を邪魔され龍馬に対して逆恨みしての暗殺説。
⑤その他の説
他にも、長州藩(木戸孝允)、朝廷(岩倉具視)、一緒に殺された中岡慎太郎説など本当に沢山あり、当時龍馬が相当複雑な立ち位置でいろいろな方面から狙われていたことが推測できます。
龍馬の誕生日と命日が同じ?
最後に余談ですが、龍馬が暗殺された慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、実は彼の誕生日と同じ日だという説があります。真相については以下の記事で紹介していますので、ぜひご覧ください。