斎藤一とは?刀や本物の写真、新撰組での役職について解説!

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幕末の剣客集団として尊王志士から恐れられた新選組、剣術の腕自慢ばかりの新撰組の中で撃剣師範を務めていた人物が3人いました。

一人は、沖田総司(おきたそうじ)、もう一人は永倉新八(ながくらしんぱち)、そして今回解説をする斎藤一(さいとうはじめ)です。

「沖田は猛者の剣。斎藤は無敵の剣。」とまで評され、幹部として新撰組を牽引した一人ですが、スパイや粛清の実行という新撰組の中でもダークな分部を受け持っていた斎藤一らしく、寡黙で多くを語らず出自や経歴も不明な点が多く謎に包まれた人生を歩んでいます。

また、近年に親族から写真が公表になりましたが、なぜ今の時代に公開することになったのでしょうか。そこには理由があるようです。

斎藤一の人生や新撰組当時の愛刀、なぜ写真が公開されたのかなどの疑問を、斎藤一の人生を考察しながら紐解いて詳しく説明していきます。

斎藤一の生い立ち

元・明石藩足軽で後に株を買って幕府御家人となった山口右助の次男として江戸に生まれ、19歳の時に口論となった旗本を切ってしまい、父の友人である京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、剣術の天賦の才があったのか吉田道場の師範代を務めました。

永倉新八の手記から、斎藤一は近藤勇(こんどういさみ)の天然理心流試衛館に出入りしていたと記されていますが、共に幕府の浪士隊の募集に参加した訳ではなく、あくまでも壬生浪士組が結成された後に京都での隊士募集で加入し、新撰組の初期メンバーとして名を連ねています。

 

新撰組での役職

新選組では、沖田総司、永倉新八と並び最強剣士の一人として恐れられ、三番組組長及び撃剣師範を務めるだけでなく、新撰組内の粛清を厳しく行っていた副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)の懐刀として副長助勤を務めました。

粛清の実行だけでなく、新撰組により油小路で暗殺された伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が御陵衛士として分隊した際も、スパイとして御陵衛士に潜入していたと言われており、新選組内のダークな部分を受け持つなど幹部として活躍しました。

 

池田屋事件で活躍

また、歴史的事件である池田屋事件では、土方隊として後発組で池田屋に到着したにも関わらず、参加奮闘し大暴れしたようで松平容保より褒美を与えられています。

池田屋事件以外にも、天満屋事件など幾多の襲撃や暗殺に参加し、実力は「斎藤は無敵の剣。」と恐れられ名実ともに幹部として新撰組を牽引しました。

 

戊辰戦争から会津戦争で奮闘

大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加、斎藤一も最前線で死力を尽くしますが、慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦い、続いて甲州勝沼に転戦するも敗走を続けます。

 

会津戦争で奮闘

斎藤一は近藤勇の指示で20名ほどを連れて先発として会津へ向かいます。しかし、隊を立て直していた近藤勇は、流山で新政府軍に包囲され投降、処刑されました。

その後、土方歳三らも斎藤一に合流して宇都宮城の戦いに参加、斎藤一は、足を負傷している土方歳三に替わり新選組を率いて会津藩の指揮下に入ります。

斎藤一は、白河口の戦いから始まる熾烈を極めた会津戦争へ参戦して奮闘、戦局打開の為、土方歳三は庄内へ向かい、大島圭介(おおしまけいすけ)ら幕軍の部隊は仙台に転戦しますが、斎藤一は会津に残留し会津藩士と共に新政府軍と戦い、会津藩が降伏した後も斎藤一が徹底抗戦を続けるので藩主・松平容保が派遣した使者の説得によって投降しました。

斗南藩士として第二の人生を歩む

会津藩は降伏後改易され家名断絶となりましたが、戦後処理も終り明治2年(1869年)再興を許され、藩地は猪苗代か下北半島を選ぶこととなり松平家は下北半島を選択、藩名は新たに斗南藩と命名されました。

他の会津藩士と同じく、捕虜となり謹慎生活をしていた斎藤一も斗南藩士として下北半島へ赴きます。

 

結婚と再婚

斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、会津藩の中でも名家とされる篠田家の篠田やそと結婚しました。

しかし、死別か離別か経緯はわかりませんが、結婚からわずか3年後に元会津藩大目付・高木小十郎(たかぎこじゅうろう)の娘・高木時尾(たかぎときお)と再婚したのです。

尚、この再婚は元会津藩主・松平容保が上仲人となり、元家老などが下仲人となるなど異例の待遇でした。

斎藤一は、この時再婚を期に氏名を藤田五郎に改名し、斗南藩士として時尾との間には3人の子供を儲けることになるのです。

 

警視庁に務める

第二の人生を歩みだした斎藤一は新政府の警視庁に採用され、西南戦争に警視隊として参加し血戦を繰り広げて奮闘しました。

その後も警視庁で警部まで務め、退職後は旧会津藩士の口利きなどで博物館や教育施設、教育機関の守衛や撃剣師範として学生に撃剣を教え、晩年は会津戦争にて戦死した隊士たちの供養に奔走し、ダークでアウトローなイメージとは真逆の人生を過ごし穏やかな晩年を過ごしました。

 

斎藤の最後

斎藤一は胃潰瘍の為72歳でこの世を去るのですが、臨終は死線を潜った武士そのものだったようで、床の間で結加趺坐(けっかふざ)という禅のポーズで往生しました。

墓は、福島県会津若松市の阿弥陀寺に葬られており、会津戦争後の戦死者の亡骸の埋葬を手伝った妻の時尾が松平容保から賜った墓所で、会津戦争で共に戦った多くの戦死者の傍らに眠っています。

 

斎藤一の肖像画について

斎藤一本人と明治30年頃の家族写真などの存在が、平成28(2016)年に親族から公開されました。

関係者宅の蔵を整理した時に見つかったもので、この時代になりなぜ公表したのかと言うと、世間に出回っている西南戦争時の警視隊の集合写真の存在を否定する為に、公開に踏み切ったのが理由だそうです。

親族からしてみれば、まったくの別人が祖父だ、曾祖父だと言われるのは心外だったのでしょう。実際、公開された写真は西南戦争の警視隊のクローズアップした写真とはまったくの別人でした。

また、斎藤一本人だと言われていたもう一枚の写真も、写真ではなく斎藤一の長男をモデルに描かれた肖像画です。

 

斎藤一の刀

鬼神丸国重(きじんまるくにしげ)長身二尺三寸一分

斎藤一の刀は現存していませんが、江戸時代の摂津国の刀工、鬼神丸国重の作品で、池田屋事件の二日後に研ぎに出した記録が残されており、刀には「摂州住池田鬼神丸国重 天和二年九月」と銘が入っていました。