永倉新八とは?刀や子孫、最強説や逸話を解説!

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現代でも人気の高い新撰組の中で、近藤勇(こんどういさみ)、土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)ほどの人気はありませんが、重要事件に携わり、元隊士の中には、新選組の中で剣の腕前は1番と評している者もいる程の剣客だった永倉新八(ながくらしんぱち)。

実は「天才剣士」の名を持つ沖田総司よりも強く新撰組最強だったとさえ言われています。

明治以降は、新撰組顕彰に取り組み剣術の指導者として生きたようですが、現在子孫は活躍しているのでしょうか。気になるところです。

また、永倉新八は剣術一筋の人生を歩んだようなので逸話も多く残っています。気になる逸話を永倉新八の人生を振り返りながら説明していきます。

永倉新八の生い立ち

永倉新八は天保10年(1839年)松前藩江戸定府取次役・長倉勘次(ながくらかんじ)の次男として、生まれました。

8歳の時に父に剣術修業を願い出て、二代目・岡田十松利貞(にだいめ・おかだじゅうまつとしさだ)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門、15歳で紙切りを習得し18歳で本目録と着々と剣術の腕を磨き、19歳で技術向上の為に脱藩して、江戸本所亀沢町の百合元昇三(ゆりもとしょうぞう)の道場で剣術を学びます。

 

剣術で脱藩、各地を旅しながらの道場破りの日々

25歳の時に浪人・芳賀宜道・旧名市川宇八郎(はがぎどう・いちかわうはちろう)と剣術修行の名目で旅に出て腕試しを兼ねて各地で道場破りを繰り返し、江戸に戻ると江戸四大道場の一つ練武館(心形刀流)伊庭秀業(いばひでなり)の門人・坪内主馬(つぼうちしゅめ)に見込まれて道場師範代を務めるまでになったのです。

その後、実践剣術の腕を上げる為に近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」を訪れ、それを機に食客となります。

文久3年(1863年)、幕府が将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛警護のために「浪士組」の募集を始まると、近藤勇・土方歳三らと共に後の新撰組の前進である浪士組に参加して京へ上洛しました。

 

二番組組長・池田屋事件でも活躍

永倉新八の所属する浪士組は八月十八日の政変で活躍後、新撰組となり永倉新八は新選組撃剣師範及び二番組組長として活躍、初代新撰組隊長・芹沢鴨(せりざわかも)暗殺以外のほとんどの重要任務に永倉新八は参加しています。

中でも歴史に残る大事件である元治元年(1864年)の池田屋事件では、永倉新八も近藤勇や沖田総司らと共に池田屋に突入、沖田総司や藤堂平助(とうどうへいすけ)が戦線離脱する中、自らの刀の先が折れても拾った刀を手に奮闘、左手親指を負傷するも4名を打ち取る戦果を挙げ2時間近くの死闘を戦い抜いたのです。

屯所に引き上げる際の野次馬は凄かったようで、新撰組の名は全国に轟くことになります。

 

近藤勇の我儘を訴える

また、池田屋事件の評判で名を挙げた隊長・近藤勇の我儘な振舞いが目だつようになると、数名の隊士達と脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)へ訴え出るなど隊長・近藤勇や副長・土方歳三に引くことなく信念を持って独自の立ち位置を確立していたようです。

その後、永倉新八は幕府から、見廻組格70俵3人扶持に取り立てられ戊辰戦争まで幕臣として活躍しました。

戊辰戦争で大奮闘

一寸先が読めないのが幕末、慶応3年(1867年)ついに徳川幕府終焉を迎えました。

大政奉還後、戊辰戦争へと突入し永倉新八も幕臣として鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、新政府軍に敗戦江戸へ撤退します。

その後、甲陽鎮撫隊にも参加しますが隊長・近藤勇と袂を分かち 靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で奮闘しますが会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し松前藩に自首しました。

永倉新八の大叔母が第7代松前藩主・松前資広(まつまえすけひろ)の側室であったことなどから、寛大な措置となり松前藩士(150石)として帰参が認められ、明治4年(1871年)には家老の執り成しで藩医・杉村松柏(しゅぎむらしょうはく)の娘・きねと結婚して養子入りし松前に渡りました。

 

晩年の永倉新八

小樽で暮らしながら地元の刑務所で剣術師範を務めたり、道場を開いたり、大学の剣道部を指導したりと剣術一本の生涯を送ります。

晩年は新撰組に関する「新撰組回顧録」、「同志連盟記」などを遺し、近藤勇や土方歳三の墓を建立し新選組の顕彰に力を注ぎました。

大正4年(1915年)1月77歳で死去。尚、墓は小樽・札幌・東京の3か所に存在します。

 

永倉新八の刀

播州手住柄山氏繁(ばんしゅうじゅうてがらやまうじしげ)刀身・二尺四寸

池田屋事件の激しい戦闘で刀の帽子(刀の先分部)が折れたことで知られています。

永倉新八の子孫

永倉新八の長女・尾上小亀(磯子)(おがみこかめ・いそこ)

磯子の母である島原遊郭、亀屋の芸妓・小常は永倉新八の京都新選組時代の妻同然だった女性で、王政復古の大号令で幕臣として永倉新八が出撃する2日前に死去しました。

その小常との間に一人娘である磯子が生れたのです。磯子は幼くして父である永倉新八と生き別れ、役者となり尾上小亀と名乗ったとされていますが、その後は不明です。

永倉新八が明治以降、松前藩医の娘きねと結婚して養子入りし杉村性となったことで、子孫は杉村家の血筋として現在も引き継がれており、曾孫の方々が活躍されています。

 

永倉新八の曾孫

杉村悦郎氏(すぎむらえつろう)伝記作家・フリーライター

「新選組 永倉新八外伝」「子孫が語る永倉新八」「新選組永倉新八のひ孫が作った本」の著者、「新選組永倉新八のひ孫が作った本」はテレビティレクターで、はとこの杉村和紀氏(すぎむらかずのり)と共同編筆。

 

杉村重郎氏(すぎむらじゅうろう)アニメプロデューサー

キテレツ大百科・こちら葛飾区亀有公園前派出所など多数のテレビアニメ・アニメ映画の監督・プロデューサーを務めています。

 

永倉新八の最強説

新撰組内で撃剣師範を務めていた選りすぐりの永倉新八、沖田総司、斎藤一と、池田屋事件で唯一無傷で「実践で敵無し」と言われた、隊長・近藤勇を合わせて、この4人は剣術だけで言えば新撰組四天王と言っても過言ではありません。

では、この四天王のうちの一人が新撰組内最強ということになるのですが、永倉新八が最強であると言われている事について調べてみました。

 

根拠①

新撰組内から彼らを見て評価している元・新撰組隊士・阿部十郎(あべじゅうろう)が明治以降に新撰組についての談話を遺している中で、剣の腕前について「1に永倉、2に沖田、3に斎藤」と評していて、実際に腕前を目のあたりし、客観的に語っているので信憑性が高い証言だと思われ、永倉新八は新撰組内最強だったのではと推測できます。

 

根拠②

池田屋事件では沖田総司が病で倒れ昏倒し、藤堂平助が負傷した中で刀を折ったにも関わらず、永倉新八は落ちている刀を拾い満身創痍となりながらも2時間近い戦闘を戦い抜いて、4名を討ち取り一番手柄を立てています。

池田屋突入の事前の調査からも、相当数の尊王志士達が池田屋に集結していることは分かっていて、選りすぐりのメンバーで突入していた事を考えると永倉新八が最強説は強ち間違いではないという事です。

 

永倉新八の逸話

永倉新八は、晩年映画館を出た所でヤクザに絡まれて眼光と一喝だけでヤクザを退散させた話や、50歳を過ぎて日清戦争の抜刀隊に自ら志願など、数々の逸話があります。

その中でも、永倉新八の身体の戦傷に注目して逸話を説明していきます。

永倉新八は、酒に酔うとふんどし一枚になり自らの身体に刻まれた7か所の戦傷を自慢するのが常だったようです。この傷は子孫の為に「七ケ所手負場所顕ス」として自らが和紙4枚に書き残こしたものです。

  1. 元治元年7月・鉄砲の打ち合いの際に腰に銃弾が当たった傷。
  2. 慶応4年・下野国壬生城の戦いで二の腕に銃弾が当たった傷。
  3. 慶応4年・茶臼山に出陣した際の人差し指の傷。
  4. 元治元年6月・池田屋事件の際に親指に傷を負い1針縫う。
  5. 元治元年7月・禁門の変で人差し指に傷。
  6. 文久3年7月・大阪力士乱闘事件で新選組隊士・島田魁(しまだかい)の脇差で腕に傷。
  7. 慶応4年2月・酒に酔い刃傷沙汰になり目の下に傷。

その他にも、護身用の羽織型のチョッキには銃創2か所と刀傷5か所があったとされています。