鳥羽伏見の戦いは戊辰戦争の緒戦!場所や新撰組の関係などわかりやすく解説!

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鳥羽伏見の戦いは、薩摩・長州を中心とする新政府側と、旧徳川幕府側との戦いです。また、戊辰戦争の緒戦でもありました。

この鳥羽伏見の戦いを皮切りに、日本全国へ戊辰戦争という内戦の火が広がっていったのです。

今回は、鳥羽伏見の戦いが繰り広げられた場所やこの戦いにおける新撰組の関係など、その全容を解説していきます。

鳥羽伏見の戦いが起こった経緯

第15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った頃からの経緯を説明していきましょう。

この大政奉還によって、幕府の政権は朝廷へ返還されましたが、実質的には、まだ慶喜が政治の実権を握っている状態でした。

それを良しとしない新政府側の西郷隆盛は、薩摩藩の浪士を集め、江戸で強盗や略奪などの挑発行為を行わせ、これらの浪士は捕吏に追われると薩摩藩邸に逃げ込みました。

また、薩摩浪士は庄内藩の警備屯所に銃弾を打ち込んだりもしており、この薩摩藩士の行動に激怒した庄内藩は江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしました。

庄内藩のこの行動をきっかけとして、旧幕府軍の間では薩摩を討伐しようとする士気が上がり、平和的に政権移動をしようと考えていた慶喜でも、この好戦的な流れに逆らうことができず、ついに新政府軍と旧幕府軍の戦争へつながっていきました。

 

鳥羽伏見の戦いが行われた場所と内容

鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の中の一部の戦いのことで、戊辰戦争の緒戦となった戦です。旧幕府軍15000人と新政府軍5000人の戦いで、その実力は五分五分と見られていました。

場所は京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)、橋本(京都府八幡市)などが戦場となっています。

初めは1月3日、鳥羽街道の小枝橋付近で両軍が対峙し戦闘に突入します。薩摩側の銃火器が優勢で、旧幕府軍は下鳥羽方面へと退却する事になりました。

この戦いと同じくして、伏見街道の旧伏見奉行所近辺でも戦闘が発生し、新選組が戦闘に参加していました。ここでも旧幕府軍は劣勢となり、旧伏見奉行所が炎上した後、堀川を超えて中書島まで撤退しました。指揮官であった陸分奉行竹中重固は部隊を放置し淀まで逃げ落ちています。

翌1月4日、鳥羽方面では旧幕府軍が一時的に反撃するものの、指揮官の戦死などを受け、富ノ森へ後退しました。伏見方面では土佐藩兵が新政府軍に加わり、旧幕府軍は敗走することになりました。

 

新政府軍の錦旗により旧幕府軍が朝敵となる

また同日、朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命、錦旗を与えたため、新政府軍は正式に朝廷に認められた「官軍」となりました。

つまり、旧幕府軍は朝廷に逆らう「朝敵」という立場になったわけですが、これが旧幕府軍の士気を大きく低下させ、朝廷と敵対したくない諸藩が新政府側に寝返り始めます。これが鳥羽伏見の戦いを決定づけました。

 

旧幕府軍として戦っていた諸藩が寝返りへ

5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃しましたが、敗退し鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を追われました。その後淀藩を頼って、淀城に入り立て直しをはかろうとします。

しかし淀藩は朝廷や官軍と戦う意思はなく、旧幕府軍の入城を拒みました。入城を拒絶された旧幕府軍は、男山・橋本方面へ撤退を余儀なくされます。

6日、旧幕府軍は男山の東西に分かれて布陣、西側の橋本に旧幕府軍の本隊が布陣しました。しかし、対岸の守備をしていた津藩が朝廷に従い寝返ったため、西側からの攻撃を受けた旧幕府軍は総崩れになり、淀川を下って大坂へ撤退しました。

 

徳川慶喜の敗走とその後

この状況を見て、慶喜は「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と旧幕府軍の兵士に檄を飛ばしました。

しかし自身は6日の夜に、側近や会津藩主・松平容保らと共に船で江戸へ退却してしまいます。慶喜が逃亡してしまったことにより、旧幕府軍の士気は急激に下がり、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わりました。

その後、慶喜は朝敵として新政府から追われる立場になりますが、最終的には旧幕臣の勝海舟や西郷隆盛の間で江戸無血開城の交渉が成立し、徳川幕府の終わりを迎えます。

しかし、戊辰戦争による戦火は北陸や東北地方など各地で巻き起こり、会津戦争や箱館戦争へと続いていくことになります。

 

鳥羽伏見の戦いにおける新撰組

さいごに、鳥羽伏見における新撰組の動きを追ってみたいと思います。

鳥羽伏見の戦いでは、緒戦時、新選組は旧伏見奉行所内に在りました。慶応4年1月3日、薩長側の兵と旧幕府側の兵とが鳥羽方面と同じく、伏見でも昼間から通行を巡って対峙していました。

まず鳥羽方面での戦闘が開始され、その音に連れて伏見方面での戦闘も始まります。旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所に本陣を置いており、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖して、旧伏見奉行所を包囲する形で布陣しました。

このとき、旧伏見奉行所内には会津兵と共に、土方歳三が率いていた新選組が在り、斬り込み攻撃を掛けました。薩摩兵がこれに銃・砲撃を加えますが、新選組を始めとする旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返しました。

午後8時頃、薩摩藩砲兵の攻撃が旧伏見奉行所内の弾薬庫に命中し、炎上しました。新政府軍は更に周囲の民家にも火をかけて、炎を照明代わりに銃撃をしてきたため、旧幕府軍は持ちこたえられずに退却を開始しました。

深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入、新選組を含む旧幕府軍は堀川を超えて中書島まで撤退しました。

新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対し、旧幕府軍は15,000名もいましたが、鳥羽では総指揮官の不在や逃亡などで混乱をきたし、兵力を生かしきれずに新政府軍に前進を阻止されました。

新選組は、この一連の鳥羽伏見の戦いで隊員の1/3が戦死するという損失を出しており、如何に苛烈な戦闘だったかが窺えます。