江戸無血開城とは?場所や西郷隆盛・勝海舟・篤姫の動きを解説!

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戊辰戦争の序盤、徳川幕府の終焉を象徴する「江戸無血開城」、実際は江戸城引渡しの事なのですが、単なる城の引渡しとは訳が違い、幕末当時江戸という大都市で暮らす人口は150万人とも言われ、江戸住民を戦火に巻き込まずに城を明け渡すと言う大功績が伴う歴史的出来事なのです。

この江戸無血開城を実現するために西郷隆盛(さいごうたかもり)、勝海舟(かつかいしゅう)、篤姫(あつひめ)などのキーパーソンとなる人物が大きく関わってくるのですが、いったいどのような場所で会談をし、どのように関わっていったのでしょうか。

江戸無血開城までの一連の流れや、その後の国内の動きなどを詳しく説明していきたいと思います。

江戸無血開城とは?

背景

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還というカードを切って武力衝突を回避し、討幕派からの王政復古の大号令、辞官納地に対しても平和裏に対応し、できる限り討幕派を刺激しないように立ち回りました。

これに肩透かしを食らう形となった倒幕派は「武力討伐」の大義名分が無くなって焦りを感じ、討幕派の急先鋒・西郷隆盛が策を講じて、庄内藩に薩摩藩邸を焼き討ちをさせます。

この事で怒り狂う幕臣の制御ができなくなり、徳川慶喜も戦いを避けられない状況になってしまい鳥羽伏見の戦いへと発展していきました。

討幕派の西郷隆盛・大久保利通らは「これで戦う理由ができた。」と、錦の御旗を掲げて朝敵の長である徳川慶喜の討伐に乗り出し、徳川慶喜は江戸へ逃げることになったのです。

こうして、正規の政府軍となった討幕派は朝敵となった徳川慶喜そして徳川幕府の本拠地である江戸へ向けて進軍を開始します。

 

江戸総攻撃中止の舞台裏「西郷隆盛・勝海舟会談」

当時江戸は150万都市、最新武器を携えた新政府軍が押し寄せれば江戸は壊滅必須。

この最悪の危機を食い止めようと幕府側から先手を打ったのが勝海舟です。

勝海舟は駿府に山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を派遣し西郷隆盛の説得にあたらせ、自らもあらゆる策を講じ迫りくる3月15日の総攻撃の前々日である3月13日に、西郷隆盛が待つ高輪の薩摩藩下屋敷へと乗り込みます。

西郷隆盛と勝海舟の会談は翌日3月14日、田町の薩摩藩邸へと持ち越し勝海舟は決死の説得を続け条件等の擦り合わせを行ったのです。

また、勝海舟とは違うアプローチとして天璋院・篤姫や静寛院宮・和宮(せいかんいん・かずのみや)などが徳川家存続と総攻撃の中止の嘆願書を各方面へ出し西郷隆盛の元へも届けられていました。

江戸を守りたい沢山の人々の思いが人情家である西郷隆盛を動かす形となり、西郷隆盛は最終独断で江戸総攻撃を中止することを勝海舟に約束します。

これで江戸は火の海にならず、徳川慶喜も無事で奇跡的に寸での所で江戸総攻撃が中止となり、誰一人血を流す事無く江戸城を新政府軍に引き渡す事ができたのです。

 

江戸無血開城のその後

江戸城は無血開城できましたが、その後も旧幕府側の幕臣達の抵抗は個々に続き、熾烈を極める会津、北越と北上し、戊辰戦争最終の箱館戦争まで戦いは続いていきました。

江戸無血開城における西郷隆盛

西郷隆盛はイギリス公使ハリー・パークスの抗議を利用

局外中立宣言をしていた英国公使ハリー・パークスは、江戸での戦争で生じる戦傷者の手当のために病院の手配などを申し込んできた新政府軍先鋒参謀に対し「恭順の姿勢を示した者に戦争を仕掛けるのは認められない。」と頑なに拒否して抗議したそうです。

 

独断で攻撃を中止

ここからは事実かどうか確認できませんが、ハリー・パークスの怒りと言葉を伝え聞いた西郷隆盛は驚いて総攻撃中止に一気に傾いたという逸話があります。

しかし、実際は江戸無血開城は西郷隆盛が山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)の主君に対する思いに涙し、お互いを認め合っている勝海舟との信頼関係、静寛院・和宮や篤姫などからの積極的な嘆願書などにより、西郷隆盛という情に厚い人間性から最終的には独断で攻撃中止を決断しました。

 

武力派を説得

ただ、新政府軍は西郷隆盛だけではありません。武力討伐強硬派の者達が多数おり、朝廷とも交渉して全てを納得させなくてはいけないのです。

西郷隆盛の交渉の上手さや、政治力からこのハリー・パークスの抗議を、西郷隆盛が総攻撃中止をする口実として大義名分に使ったと考えらています。

事実、板垣退助(いたがきたいすけ)は江戸総攻撃中止の決定に猛反対しますが、ハリー・パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がったといいます。

 

江戸無血開城における勝海舟

江戸無血開城で勝海舟は、もし会談が失敗に終わったら江戸に火を放つ「江戸焦土化作戦」を遂行する準備をしていたという話はとても有名です。しかし、勝海舟は西郷隆盛との会談前にもう一つ重要な策を講じていました。

 

勝海舟もう一つの会談

勝海舟は西郷隆盛と会談する前に、中立宣言をしているけれど薩長寄りのイギリス公使・ハリー・パークスと会談しています。

それも一人でふらりと横浜のイギリス公使館へ出向き、アポなしで会いたいと訪ねるのです。もちろんアポもない人間とすんなり会うようなハリー・パークスではなく応接室で放置していたと言います。

しかし、勝海舟は夕方が来ても帰らず待ち続け、ハリー・パークスは根負けして話を聴く事になりました。

その中身は、イギリスと幕臣との間に起こっているいろいろな問題を謝罪して真摯に向き合うという話からはじまり、総攻撃をうけた場合の対処方法として江戸焦土化をあけっぴろげに勝海舟はハリーパークスに打ち明けたと言います。

そして、徳川慶喜が恭順の意を持って謹慎している事や、総攻撃を受け徳川慶喜の命が危ない時には亡命させることなど、腹を割った話をして気持ちが通じ合いハリーパークスはイギリス軍艦内で勝海舟とディナーを共にしたのです。

この会談は勝海舟にとっては大変意味のあるものとなったはずで、後日ハリー・パークスを訪ねてきた西郷隆盛が江戸総攻撃中止を伝えると、ハリーパークスは西郷隆盛に対して決断を称えたと言います。

 

江戸無血開城における篤姫

江戸無血開城で、大奥を去る篤姫の進退は見事な物だったそうです。

江戸城引渡しでは、御休息の間、御化粧の間などの飾りつけはそのままとし、金銀の飾り、掛け軸、香具一式、古今和歌集、千載和歌集など全て据え置いたと言われています。

これは官軍に徳川の威光と大奥の権威を物見せてやろうとする、徳川家の嫁として自負がある篤姫らしい心意気からのものです。

 

さいごに

江戸無血開城は、様々な重要人物の働きが絡み合い、実現した偉業ということが言えるでしょう。

その中でも、西郷隆盛や勝海舟という英傑二人が大きな役割を果たし、篤姫も影の部分で尽力していたのです。