篤姫(天璋院)とは?夫の家定や子供、西郷隆盛との関係について解説!

歴史上の人物は男性であることが多いですが、今回はある一人の女性について紹介したいと思います。それが篤姫(あつひめ・天璋院)です。

地方の姫という身分から徳川家に嫁ぎ、徳川家存続のために力を尽くしたその生涯とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

篤姫と西郷隆盛の関係、また夫の家定との関係や、子供がいるかどうかについても解説していきます。

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篤姫の生い立ち

1836年2月5日、篤姫は今和泉島津家という薩摩藩一門の家系に生まれます。今和泉島津家は薩摩藩主・島津家の分家にあたる家柄で、第11代藩主・島津斉彬と篤姫はいとこに当たる関係でした。

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将軍の正室へ。幾島が教育係に

当時の第13代将軍・徳川家定は生まれつき病弱だったのもあり、子供がいませんでした。それに加え、家定が迎えた正室(御台所)が2人とも若くして亡くなっており、次の正室を誰にするかという問題が持ち上がっていました。

そこで白羽の矢が立ったのが、篤姫です。

かつて第11代将軍・家斉の正室が島津重豪の娘・茂姫だったという前例があるため、同じ島津家なら適任だろうということで島津家に声がかかったのです。

当時の藩主・島津斉彬は自身の子女で適任の娘がいなかったため、篤姫を養子に迎え、正室になるための御台所教育を受けさせて江戸に送りました。

ちなみに、この時、篤姫の教育係として女官に任についたのが幾島で、大奥においては篤姫を影で支え続けました。

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家定が死去し、家茂が第14代将軍へ

篤姫が大奥に入ってわずか2年後、夫の家定が亡くなってしまいます。天璋院と名乗り始めるようになったのはこの頃です。

家定が亡くなる以前から家定の後任を誰にするかということで、慶喜を推す島津斉彬・徳川斉昭ら一橋派と、家茂を推す井伊直弼ら紀州派の間で政治的争いが起こっていました。

慶喜の父である徳川斉昭は大奥の面々から嫌われており、かつ篤姫が将軍としての慶喜の資質に疑問を持っており、二人の関係は良好ではなかったため、最終的に家茂が第14代将軍に就任することになります。

ちなみに、井伊直弼に逆らった島津斉彬や徳川斉昭は、安政の大獄により江戸城への登城を禁じられ、それに激怒した斉彬は兵を率いて上京しようとしますが、家定の死後すぐに斉彬も亡くなってしまいます。

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徳川家の存続を願い、嘆願書を出す

戊辰戦争が起きると、幕府軍は敗北を喫し、新政府軍が江戸へ押しかけるようになります。

いよいよ幕府も終わりを迎えようとしていましたが、篤姫は徳川家を存続させるために、第14代将軍・家茂の正室である和宮と手分けして、島津家や朝廷に対して手紙等を送り続けました。当時の将軍・徳川慶喜の助命を嘆願したのです。

この篤姫らの働きが実を結び、慶喜の助命は聞き入れられ、徳川家の血を守ることに成功します。

実際、篤姫は自分たちのことを女だからといって下に見る慶喜のことをかなり嫌っていたようですが、好き嫌いという小さな感情を抑え、徳川家のために尽力する篤姫の器の大きさを知ることができる出来事ですね。

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和宮と最初は不仲だったが、最後は大の仲良しに

先に書いたように、篤姫と和宮は協力して徳川家のために尽くしますが、最初は二人の仲は最悪でした。

孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)が第14代将軍・家茂の正室として大奥にやってくると、様々な波乱が起こります。

京都で暮らしてきた和宮は大奥を御所様式にしようとしましたが、一方で篤姫は和宮のことを無視するなど、生まれや考え方の違いにより、篤姫と和宮の間でかなり険悪な雰囲気が流れていました。

しかし、勝海舟が二人の間に入ってうまく取り成したことで、篤姫と和宮の仲は改善され、最終的に二人で徳川家を存続させるために協力し合います。

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和宮のために篤姫が読んだ句

和宮が病気で亡くなってしまった際、篤姫は和宮が生前滞在していた箱根の地を訪れ、以下のような句を読んでいます。

君が齢(よわい)とどめかねたる早川の 水の流れもうらめしきかな

【意味】早川は、まるであなたの命を留めてくれないように速く流れて行きます。水の流れを見るたび、あなたの運命が無念でなりません。

 

最初こそお互いを嫌っていた二人でしたが、この篤姫の句を見る限り、最後は本当に仲の良い関係を築いたのだと分かります。

 

篤姫と本寿院も仲が良かった?

最終的には和宮と仲が良くなった篤姫ですが、夫・家定の母である本寿院とも良い関係だったと言われています。なんでも、篤姫が和宮を見舞いに行くために生涯初の旅行をした時には、「あなた(本寿院)がいなくて寂しい」ということを本寿院に伝えたそうです。

篤姫の人間関係を築く力は非常に長けていたと言えますね。

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篤姫の晩年

篤姫の晩年は、慶喜の子である徳川家達の教育に力を入れます。家達が14~19歳までロンドンに留学したのも、篤姫のアドバイスによるものだと言います。

1883年、篤姫はお風呂場で足を滑らせ、その時に頭を強く打ったことで、脳卒中となり亡くなります。享年47歳。

篤姫の葬儀には1万人が訪れたと言いますから、それほど多くの人に慕われた女性だったことが分かります。

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西郷隆盛との関係

篤姫と西郷隆盛、どちらも歴史上の人物として有名ですが、二人はどのような関係だったのでしょうか。

大河ドラマ「西郷どん」では西郷隆盛が篤姫に色恋の感情を持つというシーンがるようですが、実際の二人の関係に色恋のような事実は全く出てきません。

確かに、西郷隆盛は篤姫が将軍家に嫁ぐための準備をしたり、篤姫の奥女中・幾島と情報交換を行なったりしていますが、それらは全て政治的な関わりです。西郷は当時まだ身分も高くなかったため、将軍家の正室である篤姫と直接やりとりするような場面はほとんど無かったかと推測されます。

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篤姫と夫・家定の関係

篤姫の夫と言えば、ご存知の通り第13代将軍・徳川家定でしたが、篤姫が嫁いでからわずか2年ほどで家定は亡くなってしまいます。

そんな二人の夫婦としての関係はどうだったのでしょうか。

江戸城の様子を記した文献「昨夢記事」には、篤姫と家定の夫婦仲は良好という内容が書かれています。

また、家定は大変優しい心持ちをしていたそうで、ペリーが二度目の来航をした時献上された鏡台の類(現代で言うミシン)や、自分で作ったカステラなどのお菓子を篤姫にプレゼントしています。

家定は大奥に月2~3回程度しか泊まらず、側室のお志賀が嫉妬深い人物だったことから、そちらに行くことが多かったようですが、それが篤姫との不仲を示すことにはならないでしょう。

脳性麻痺を患っていた家定に対して、篤姫はどちらかというと母性愛のようなものを持って接していたのではないかと推測できます。

やはり、夫婦仲は良かったと言えるのではないでしょうか。

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子供はいる?

残念ながら、篤姫と家定の間に子供ができることはなく、篤姫自身の生涯で彼女が自分の子供を持つこともありませんでした。

しかし、母親代わりとして、篤姫は慶喜の子・徳川家達(いえさと)の面倒を良く見て、教育なども熱心に行なっていました。

 

さいごに

篤姫(天璋院)の生涯に関して詳細に解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。

女性でありながら、ここまで人々の記憶に残る歴史上の人物というのも希だと思います。まさに徳川家の正室にふさわしい、器の大きい女性だったようですね。

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