佐久間象山の生涯とは?名言や暗殺の経緯、子孫を解説

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和歌や漢詩、書画に優れ、七弦琴を奏で、経書、和算、朱子学を修め、洋式砲術を習得して大砲の鋳造に成功し、学んだ蘭学の知識を駆使してガラスの製造や地震予知器の開発にも成功した幕末の天才である佐久間象山。

彼の門下生には勝海舟吉田松陰坂本龍馬を始め橋本左内河井継之助など、幕末維新の時代に名前を残した人物が数多く見られます。

象山が製作した西洋大砲が試射で大爆発を起こしたときに、後々、名言として語られる『失敗するから成功がある』という言葉を平然と言って退けた、豪気で空気を読まない人物だった様です。

これだけの人物でありながら自身の慢心から命を落とし、その息子も情けない逸話を残すなど、その生涯は歴史を学ぶ者の興味を引きます。

佐久間象山とはどのような人物だったのか、彼の出生から振り返りたいと思います。

佐久間象山の生い立ち。ハーフ説は嘘?

佐久間象山は1811年2月28日、信濃松代藩(長野県長野市松代)藩士・佐久間一学国善(さくまいちがくくによし)の長男として生まれました。

国善は薄給の藩士でしたが、藩主の右筆(ゆうひつ・秘書官)を勤め、剣術(卜伝流)の達人でもあったため重用されており、母親のまんは足軽の娘で国善の妾でもあったので教科書や副読本に掲載されている写真からハーフなのではとの噂もありますが、れっきとした日本人です。

象山は竹内錫命(たけのうちしゃくめい)から詩文を、鎌原桐山(かんばらとうざん)から経書を、町田正喜(まちだまさよし)から和算を学び、松代藩藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)にも認められます。

23歳で江戸に出た象山は、佐藤一斎(さとういっさい)に朱子学を学び、30歳を前にして私塾「象山書院」を開きましたが、ここで教えていたのは儒学であって、まだ象山自身が蘭学の必要性には目覚めていませんでした。

 

佐久間象山、人生の転機

松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)に任ぜられ、象山はその顧問となります。これによってアヘン戦争やイギリスと清の関係など海外情勢を学ぶ事となり、蘭学の必要性を痛感します。

象山はオランダ語をはじめ、自然科学、医学、兵学などの勉強を開始し、江川英龍(えがわひでたつ)門下で兵学を本格的に学ぶために「象山書院」を閉めます。

蘭学を学び、西洋大砲の鋳造に成功するなど名声をあげた象山は、江戸に戻ると「五月塾」を開校し、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らに砲術や兵学を教えました。

1853年にペリーが浦賀へ来航したとき、浦賀へやって来た象山は吉田松陰に密航を勧めます。

吉田松陰が密航に失敗して罪に問われると、象山も同様にその罪に問われ、伝馬町牢屋敷に入牢、その後も松代で謹慎させられました。

しかし1864年、徳川慶喜に呼ばれた象山は上洛。慶喜に対して公武合体論と開国論を説き、再び表舞台へ登場します。

 

 

佐久間象山の暗殺

象山は非常に自信過剰なタイプだったと言われており、回りの空気を読まず、上から目線の人物だったと評されていました。このため敵も多く、言われなき恨みもあちこちで買っていたようです。

その上、自身が開国派であることを自認しており、尊皇攘夷派の志士が多く潜伏する京都では、当然のごとく暗殺の標的にされました。

1864年7月11日、三条木屋町で供も連れずに街を歩いているところを前田伊右衛門、河上彦斎らに襲われ、命を落とします。

享年54歳、日本の新しい夜明け前にこの世を去りました。

佐久間象山の名言

象山は非常に先進的な考え方をする人物で、この時代では当然である勉学の教え方の伝授、秘伝、皆伝などは全く眼中になく、象山が学んだことは全て公開され、誰でも学ぶことが出来るようにしていました。

発言に関しては人を少し小馬鹿にしたようなものが多く、哲学的なものも多数見られます。

では佐久間象山の名言をいくつか紹介しておきます。

 

名言①

天下の大計を知らず、国の財用を費やし、以てこの無益の務をなすは、そもそも何ぞや 

外国船の侵入を食い止めるために設置された砲台が、射程距離や破壊力など全く計算されずに設置されているのを見て、憤慨したときに語った言葉です。

 

名言②

兵は国の大事、死生存亡のかかる所である。成算なくしてみだりに兵を動かす者は、国家と国民の生命をあまりに軽く考えている

死の直前に書いたと言われる一節。兵学においての軍隊の動かす理由や指揮官に対する戒めを述べた言葉です。

象山が残した言葉は、国家を大所高所から見た発言や国を憂い、どこに向かえばよいのかを暗示するような発言もしています。

自信過剰な天才だった佐久間象山らしいと言えます。

 

佐久間象山の子孫

象山の子・佐久間恪二郎(三浦 啓之助)は新選組に入隊するも素行が悪く脱走し、維新後は佐久間象山の息子であることを利用して司法省に出仕しますが警察官と間に暴行事件を起こして免職。

そののち松山県裁判所で裁判官になるものの、31歳の時に食中毒でこの世を去っています。

佐久間象山ほどの天才でも子孫まではコントロール出来なかったようです。

 

さいごに

佐久間象山は誰よりも多くの書物を読み、多くの物事に接して学ぶことのできる事は学び尽くしています。また、努力家でもあり学ぶことに貪欲であったものの、自分の知識を出し惜しみするようなことはなく、誰にでも自分の知識を公開し学ばせています。

幕末に登場した天才は維新を前にしてこの世を去りましたが、多くの弟子や門弟を世に送り出し、明治維新を迎えさせ、その後の新しい日本を支えました。

そういう意味では佐久間象山は維新の父と言える存在だったのでしょう。