武市半平太とは?三文字切腹や坂本龍馬との関係、妻や子孫についても解説!

一藩勤皇に全てを捧げ坂本龍馬(さかもとりょうま)も結党時には名を連ねた土佐勤王党を率いて奮闘するも、志半ばで幕末の世に散った武市半平太/瑞山(たけちはんぺいた/ずいざん)とはどのような人物だったのでしょうか。

当時でも珍しい三文字切腹をして果てた、気概のある人物を支えた妻もとても興味があります。そして、その妻との間には子供がいたのでしょうか。子孫なども気になるところです。

武市半平太の人生を追いながら、武市半平太の生涯を詳しく解説していきます。

武市半平太とは?

剣術家として頭角を現す

武市半平太は文政12年(1829年)9月、土佐藩白札郷士(上士と同等格)武市正恒(たけちまさつね)の長男として土佐吹井村に生れ、20歳の時に祖母を扶養する為にも生涯の伴侶として島村富子(しまむらとみこ)を妻に迎えます。

妻・富子と結婚した翌年3月に武市半平太は高知城下に転居、小野派一刀流(中西派)で剣術を学び、わずか2年で中伝を授かり剣術家としての頭角を表していきました。

 

土佐城下で評判の道場主となる

翌嘉永7年(1874年)、武市半平太25歳の時に剣術師範・麻田直養(あさだなおもと)より免許皆伝を伝授され、妻・富子の叔父で槍術家・島村寿之助(しまむらじゅのすけ)と協同で併設道場を開きます。

この道場は城下でも評判の道場となり、武市半平太の道場には120人の門弟が集う人気道場となったのです。

また、この道場の門下生には中岡慎太郎(なかおかしんたろう)や岡田以蔵(おかだいぞう)などが籍を置き、後に武市半平太が立ち上げる土佐勤王党の母体となります。

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剣術家から尊王攘夷の猛士へ、土佐勤王党を立ち上げる

安政3年(1856年)、武市半平太は江戸へ剣術修業に出て鏡心明智流の桃井春蔵(もものいしゅんぞう)の元で塾頭となります。また、江戸で尊王攘夷派と交流し大いに刺激を受けたのです。

その後、武市半平太は諸事情で土佐へ帰国し剣術諸事世話方を務めますが、翌年に藩で大きな動きがありました。

将軍継嗣問題で一橋派として活動していた藩主・山内容堂(やまうちようどう)が安政の大獄で隠居謹慎となり、国中で粛清の嵐が吹き荒れます。

しかし、わずか1年ほどで幕府大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺され全国的に尊王攘夷の機運が一気に盛り上がり国政も混乱を窮めていったのです。

武市半平太も祖母が亡くなると、西国へ遊歴へ出たり、江戸で尊王攘夷派と会合を重ねたりを繰り返し尊王攘夷運動に傾倒していきます。

ついに武市半平太は文久元年(1861年)、一藩勤皇を掲げて坂本龍馬、吉村虎太郎(よしむらとらたろう)、中岡慎太郎らの同士を集めて土佐勤王党を結成、2年後には192名が連判に参加し、最終的には協力者も含めると500名規模となる一大勢力を作り上げたのです。

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政敵・吉田東洋(よしだとうよう)を暗殺し藩政を掌握する

文久2年(1862年)旧臣で守旧派の家老陣と気脈を通じていた武市半平太は、守旧派の意を汲み取り政敵である開国・公武合体派の参政・吉田東洋の暗殺を決断し、土佐勤王党の党士を刺客として参政・吉田東洋を暗殺したのです。

吉田東洋暗殺後、守旧派の面々が要職に就き、東洋派を一掃、藩政を掌握するとともに彼ら守旧派は武市半平太率いる土佐勤王党を比護、武市半平太は事実上藩政の実権を主導していきました。

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暗殺指令(天誅)と朝廷工作

藩政を掌握した武市半平太は、藩主・山内豊範(やまうちとよのり)を擁して京に上洛、他藩応接役となり活躍する一方で、幕府に対して攘夷実行を命じる勅使派遣の為の朝廷工作に奔走しました。

武市半平太の朝廷工作、国事周旋は功を奏じ、朝廷から幕府に対して攘夷催促する勅使の江戸東下となり武市半平太も江戸に随行します。

この頃が武市半平太の絶頂時期で、ついには京都留守居加役と出世していったのです。

しかしその裏で、武市半平太は天誅と称して佐幕派暗殺を指示し、後に幕末の四大人斬りと呼ばれた岡田以蔵、武市半平太と義兄弟の契りを交わしていた薩摩藩士・田中新兵衛(たなかしんべえ)などの刺客を放ち、政敵を天誅として暗殺させました。

 

土佐勤王党の弾圧と切腹

文久3年(1863年)8月、八月十八日の政変後、公武合体派が息を吹き返すと、前藩主・山内容堂も謹慎を本格的に解いて土佐に帰郷し国政・藩政に返り咲きます。

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藩政に復帰した前藩主・山内容堂は満を持して徹底的な土佐勤王党弾圧を開始し、武市半平太も同志とともに捕えられ投獄されてしまうのです。

武市半平太は上士なので拷問をされずにいましたが、武市半平太以外の捕らえられた土佐勤王党の党士は、服毒自殺をしなければ耐えられないほどの拷問に合い、捕らえられていた岡田以蔵の自白が始まると、吉田東洋の暗殺に武市半平太が関与していた事が明白となっていきました。

しかし、最後まで武市半平太は吉田東洋の暗殺関与を否定し続け、前藩主・山内容堂は「君主に対する不敬行為」という罪状で遂に切腹を命じます。

1年9カ月もの入獄の末、慶応元年(1865)5月11日、武市半平太は切腹し39歳で生涯を終えました。

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三文字切腹について

武市半平太は切腹で三文字切腹をしたことで知られています。

切腹が始まった戦国時代当初は相当苦しむ切腹が主流で、江戸時代に入り武士道として介錯人が付くなど、切腹人ができるだけ苦しまないように形や作法が確立されていきました。

江戸時代中期には、切腹自体を簡素化し、扇腹や扇子腹と言った介錯人に頼る方法が確立され本来の切腹の作法が復活したのは幕末になってからです。

切腹が法律上禁止されても、太平洋戦争末期に一部の将校が切腹をしたようですが、軍刀で刺しただけで痛みで失神して助かった者がかなりいたと言われているくらいで、相当の精神力と根性が必用な事がわかります。

武市半平太が実行した三文字切腹は文字通り、三の字のように横に三回切るのですから常人にはまず無理なほど想像を絶する切腹で、武市半平太の切腹は後の世まで語り継がれる切腹となりました。

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武市半平太と坂本龍馬

武市半平太と坂本龍馬は遠い親戚であり、お互いを、あだ名で呼びあい家の行き来もありました。

共通の親戚で日本初の司祭となる、山本琢磨(やまもとたくま)が切腹に値する罪を犯した時、武市半平太と坂本龍馬の手助けで江戸から無事逃がした話は有名です。

坂本龍馬が土佐勤王党を脱退し脱藩した時も、武市半平太は坂本龍馬を庇いました。

お互い考え方や価値観が微妙に違い、行く道を二つに分ける事となりましたが、気心の知れた友人だったことは間違いないでしょう。

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妻・富子

武市半平太の妻・富子は、嘉永2年19歳の時に武市半平太に嫁ぎ、献身的な妻として武市半平太に仕え助けました。

武市半平太が投獄された日から、妻・富子は冬でも布団を使わず板の間で眠り、夏は蚊帳をかけずに夫と辛苦を共にしたのです。

武市半平太が切腹となると士族籍剥奪と家禄没収となり、未亡人となった富子は、長屋で羽子板の押し絵作りや、裁縫、内職をして細々と生計をたてました。

しかし、明治十年に特旨が出て夫・武市半平太の名誉が回復されてからは長らくの苦労も徐々に報われて、当時、宮内大臣となっていた元土佐勤王党の田中光顕(たなかみつあき)や武市半平太を尊敬する子弟達(瑞山会)によって武市半平太亡き後、貞節を守る富子に援助の手が差し伸べられ、明治42年には一時東京に転居し手厚く比護されます。

明治45年(1912年)には、医師免許を得た養子・武市半太(たけちはんた)とともに土佐に帰郷して余生を過ごし、大正6年に88歳で亡くなりました。

 

武市半平太の子孫

武市半平太と妻・富子との間には子供がいませんでした。しかし、当主としての責任感の強かった武市半平太は武市家の血筋が途絶える事を心配して、獄から縁者に手紙をしたためていたほどです。

妻・富子も武市半平太亡き後、夫・武市半平太の意を酌み縁者から養子縁組を薦められ3回ほど縁組をし、いろいろな事情で2回は縁がなかったものの3回目にして妻・富子の弟の笑児の地縁によって、明神睦衛(みょうじんちかえ)を養子に迎え入れ翌年に明神睦衛は半太と改名します。

この半太は田中光顕や瑞山会などの援助もあり医師免許を得て開業し、富子の晩年を支えました。半太の子孫・地縁者には、現在も医学の分野で活躍している者がいるようです。

また、武市半太の子で、武市半平太の孫である武市楯夫(たけちたてお)氏は元・中央大学法学部教授です。