大隈重信とは?足や早稲田大学、子孫や名言について解説!

幕末、明治維新で多くの人物を輩出した藩と言えば、いわゆる薩長土肥と言われる4つの藩で、薩摩と言えば西郷隆盛に大久保利通、長州と言えば木戸孝允、高杉晋作、土佐藩と言えば坂本龍馬、中岡慎太郎などです。

では肥前藩はと言えば、聞かれて答えに窮する人も多いと思われます。それはなぜでしょうか?

肥前藩出身の攘夷志士は幕末に京都で活躍した記録もなく、戊辰戦争でも江藤新平が活躍した程度で新政府が誕生するまでは表舞台に名前が出てこないためです。

しかし、今回の主人公である大隈重信は肥前藩出身で、明治新政府誕生後にめきめきと表舞台に頭角を表し、2度も内閣総理大臣の座に就いて早稲田大学をも創設するに至った人物です。

人生半ばで右足を失う卑劣な行為にあいながらも、政党政治の実現や日本の高等教育の充実に力を注いだ大隈重信の人生を残した名言、子孫も含めて振り返ってみましょう。

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誕生から青年期、大隈重信の思想形成

天保9年(1838年)2月16日、現在の佐賀県佐賀市で知行300石の上士・大隈信保(おおくぼのぶやす)の長男として誕生。

7歳で佐賀藩校・弘道館(こうどうかん)に入学するも、儒教教育に反発して藩校改革を訴え、17歳で退学すると水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)と「東西の二傑」と称された枝吉神陽(えだよししんよう)から国学を学び、副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平(えとうしんぺい)らとともに神陽が主宰する尊王派団体・義祭同盟(ぎさいどうめい)に参加しました。

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その後、佐賀藩蘭学寮へ移り、藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)にオランダ憲法を進講(位の高い人に講義すること)するほどとなり、蘭学寮を編入した弘道館に教授として着任して蘭学を教え、国学を学ぶことで尊王攘夷思想が芽生え、蘭学を学ぶことで開国の必要性を10代後半にして悟ることになりました。

 

大隈重信の20代、世界の政治を学ぶ

大隈重信は長州征伐の時に長州藩を援助して幕府との関係改善を斡旋する藩論を主張しますが受け入れられず、長崎に佐賀藩が作った藩校英学塾・致遠館(ちえんかん)に副島種臣とともに教頭として赴任、校長であった宣教師のグイド・フルベッキから英語を学ぶ機会を得ることになります。

教材として新約聖書やアメリカ合衆国憲法が使われましたが、これによって諸外国の政治制度や法制度の解釈や講義が致遠館で行われたことで欧米の政治思想の研究もはじめ、佐賀藩のみならず他藩からも多くの学生が集まり英語塾から政治塾へと変わっていきました。

なお、この致遠館の学生には西郷隆盛、大久保利通をはじめ伊藤博文、坂本龍馬、岩倉具視、勝海舟らが名を連ねており、致遠館は明治維新の人材育成機関だったのです。

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明治新政府へ出仕

1867年、副島種臣とともに大政奉還を進めるため脱藩して上京しますが捕まってしまい、佐賀に帰されて1ヶ月の謹慎処分となります。

1868年、薩摩藩の小松帯刀(こまつたてわき)の推薦で新政府の徴士参与職(官僚)となった大隈重信はキリスト教禁令でイギリス公使パークスと渡り合い、英仏米伊独の5か国公使との近代貨幣制度導入を公約した高輪談判を主導し、これに伴う新貨条例の制定や新橋~横浜間の鉄道建設、電信事業の開始など、それを所管する工部省の開設に尽力しました。

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新政府に出仕してからの仕事ぶりが認められ、1870年に出仕してわずか3年で参議に補されました。

1872年には富岡製糸場の設立、1874年には日本が始めて参加したウィーン万博の事務局総裁に就任、この頃から伊藤博文や井上馨(いのうえかおる)などの若手官僚が大隈重信のもとに集まり、木戸孝允(きどたかよし)とも連携して大久保利通、岩倉具視らの対抗勢力の旗頭的な存在となりました。

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官僚から政治家、そして政党結成へ

参議兼大蔵卿であった大隈重信は強固な省庁である大蔵省を作るため民部省を合併させ、大蔵省を巨大権益を持つ一大官庁にします。

大蔵省の力をして地租改正の改革や機械制工業の導入、鉄道網の整備など殖産興業を押し進め、会計検査院を設立して初代院長にも就任しました。

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また、大隈重信は征韓論で下野した板垣退助(いたがきたいすけ)らの自由民権運動に同調し、早期の国会開設や憲法の制定の意見書を提出しますが、支持者であった伊藤博文らと開拓使官有物払下げ事件で対立、大隈重信は参議を解任され、伊藤博文によって政府から追放されてしまいます(明治十四年の政変)。

下野した大隈重信が国会開設に備え、明治15年(1882年)立憲改進党を結成すると、尾崎行雄(おざきゆきお)や犬養毅(いぬかいつよし)らが入党、政党政治を目指していくことになります。

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早稲田大学の創立と高等教育への情熱

大隈重信は立憲改進党を結成した1882年10月、小野梓(おのあずさ)や高田早苗(たかださなえ・早稲田大学初代学長)らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を掲げて東京専門学校(現・早稲田大学)を、実業家・柳田藤吉(やなぎだとうきち)が創設した私塾・北門義塾があった早稲田に開設します。

大隈重信の高等教育への情熱はこれだけに留まらず、慶應義塾設立に奔走していた福沢諭吉からの借用書を大蔵大臣であった大隈重信が受け取っていたり、同志社大学大学設立の資金集めをしていた新島襄(にいじまじょう)に賛同し親交を深めたり、日本女子大学の創始者である成瀬仁蔵(なるせじんぞう)とも親交があり、大学設立時には創立委員会の委員長に名を連ねています。

 

暗殺未遂事件、大隈重信の足を切断

明治21年(1888年)総理大臣・伊藤博文は不平等条約改正のため、外交手腕の確かな大隈重信を呼び戻し外務大臣に据えます。

伊藤内閣を継いだ黒田清隆(くろだきよたか)内閣でも外務大臣に留任し、条約改正を進めようとしますが反対派の抵抗は激しく、右翼である国家主義組織玄洋社(げんようしゃ)の来島恒喜(くるしまつねき)に外務省から馬車で帰宅途中に爆弾を投げつけられ右足を負傷、結局手術にて切断する事となり大隈重信は外務大臣を辞任しました。

この手術はベルリン大学医学部で日本人初の医学博士号を取得した順天堂医院院長の佐藤進(さとうすすむ)や大隈重信の主治医であるドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって行われました。

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政界へ復帰、政党内閣の誕生

明治29年(1896年)松方 正義(まつかたまさよし)内閣で外相に就任、政界へ復帰しますが薩摩出身者とそりがあわず、翌年辞任しました。

明治31年(1898年)板垣退助(いたがきたいすけ)と憲政党を結成すると、薩長出身者以外で始めての内閣総理大臣を拝命して日本初の政党内閣を組閣、内務大臣に就任した板垣退助との名前から隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれました。

しかしこの内閣は内紛が絶えずわずか4ヶ月後には総辞職となり、その後明治40年(1907年)に政界引退を表明し、早稲田大学総長に就任、政界から距離をとりました。

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またまた復帰、そして引退へ

しかし、大正2年(1913年)ごろから始まった藩閥政治の行き詰まりによる第一次護憲運動が活発になると再び政界に復帰、翌大正3年(1914年)に2度目の内閣総理大臣を拝命し組閣、大正5年までの約3年間の間に第一次世界大戦による対独宣戦布告や対華21ヶ条要求を出すなど外交手腕を示しました。

しかし、再び馬車に爆弾を投げられるテロ行為に遭遇したり(爆弾が不発だったため未遂に終わる)、内務大臣・大浦兼武(おおうらかねたけ)の汚職事件(大浦事件)から民衆の支持を一気に失って総辞職に追い込まれ、今度こそ完全に政界から引退することになりました。

 

庶民に絶大な人気を誇った大隈重信の最後

大正5年(1916年)大隈重信は侯爵に陞爵 (しょうしゃく ・爵位が上がること)し、貴族院侯爵議員になっていましたが、第二次大隈内閣が総辞職にしたことで議員生活に終止符を打ち、完全に政界から引退、大正11年(1922年)1月10日胆石症のため83歳で没しました。

1月17日、告別式のあと国民葬が日比谷公園で催されましたが、約30万人が参列し大隈重信との別れを惜しみました。

野球の始球式、メロン栽培、首相として地方遊説、実はこれら全て日本初は大隈重信が行ったことで、民衆に触れ、庶民の近くで政治を行おうとした大隈重信の人柄をあらわしています。

大隈重信の葬儀の3週間後、長州派閥であった山縣有朋の日比谷公園での国葬には民衆はほとんど参列することなく、ほぼ政府または軍関係者のみで行われたことを考えれば、大隈重信がどれほどまでに国民に人気があった政治家であったかがうかがえます。

今では日本でも当たり前となった政党政治の道筋をつけた大隈重信は最初の庶民宰相でもあったのでした。

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大隈重信の子孫

大隈重信には実子が長女の熊子しかおらず、陸奥国盛岡藩の第15代藩主・南部利剛(なんぶとしひさ)の次男・英麿(ひでまろ)を婿養子として迎え、東京専門学校の初代校長など早稲田大学で要職に就かせますが、英麿自身の借金問題で熊子と離婚し大隈家から離れます。

その後、肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮(まつらあきら)の三男・信常(のぶつね)を養子に迎えます。

大隈信常は東京帝国大学法科大学卒業後、衆議院議員、貴族院議員を勤め、早稲田大学の名誉総長も勤めました。

また現在の日本野球機構(NPB)の前身となる日本野球連盟の初代総裁も勤めています。

 

大隈重信の名言

明治22年10月18日、外務省からの帰宅途中に爆弾テロで右脚を失った大隈重信でしたが、切断手術後に「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思っていない。いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っています。

そして大隈重信は自害して果てた来島恒喜の墓を建ててお参りに行っただけでなく、来島の遺族に送金もしています。

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