桜田門外の変とは?井伊直弼が暗殺された場所や状況をわかりやすく解説!

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「桜田門外の変」とは、脱藩した水戸藩浪士らによって大老の井伊直弼が暗殺された事件です。

本来は厳重な警備に守られているはずの直弼がなぜ暗殺されてしまったのでしょうか。実際に直弼が暗殺された場所や状況、またその後の展開などをわかりやすく解説していきたいと思います。

「桜田門外の変」が起こった原因は?

井伊直弼は、朝廷と繋がり幕政改革をしようとした水戸藩士らに対し、「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を実行しており、水戸藩の家老までも処刑しています。桜田門外の変が起こった原因は、わかりやすく言うと、水戸藩士らに恨みを買ったことが原因だったのです。

 

「桜田門外の変」が起こった場所や状況

1860年3月3日、その日は「桃の節句」の祝賀のために、大名が揃って江戸城へ登城する日でした。「桜田門外の変」は、その名の通り、江戸城の入り口となる桜田門のすぐ近くの場所で起こった事件です。

 

暗殺当時の状況

午前9時頃、井伊直弼の行列は、桜田門から400mほどの所にある彦根藩邸を出発して、桜田門にちょうど入ろうとしたその時、異変が起こります。

桃の節句の大名登城を見物していた町人や武士に、井伊直弼を狙う水戸脱藩浪士が紛れており、その内の一人である森五六郎が行列の前に立ちはだかります。

これによって注意を逸らされた警備兵が前方に移動した時、水戸脱藩浪士・黒沢忠三郎が井伊直弼の駕籠を狙って拳銃を発砲し、それを合図に、隠れていた残りの水戸脱藩浪士が同じく駕籠を目がけて切り込みました。

襲撃してきた水戸脱藩浪士ら18名に対し、直弼の行列は警備兵20名と駕籠を担ぐ足軽40名の計60名から成る行列。襲撃当時は激しいぼたん雪が降っていたため、警備兵は刀に黒い柄袋と全身に重い雨具を着ており、水戸脱藩浪士の襲撃に素早く対処することができませんでした。

その結果、警備兵は次々とやられて、残りの兵士も突然の襲撃を恐れて逃げてしまったため、直弼の駕籠の周りには誰もいなくなってしまいます。直弼自身も最初の黒沢忠三郎による発砲で全身に重傷を受けており、まともに動ける状況ではありませんでした。

そして直弼は駕籠の外に引きずり出されてしまい、水戸脱藩浪士と一緒に襲撃した薩摩藩士・有馬次左衛門よってその首級を上げられてしまいました。

この間、わずか3分ほどの出来事だったと言われています。

 

桜田門外の変の結末

井伊直弼の首級を上げた薩摩藩士・有馬次左衛門はそのまま逃走を計りますが、直弼の家臣である小河原から切りつけられて重傷を負い、遠藤但馬守邸前で自刃します。

襲撃した他の水戸脱藩浪士は、捕縛されるか自首をして処刑されており、明治まで生き残ったのはわずか2人しかいませんでした。これらの襲撃者はのちに「(桜田)十八烈士」と呼ばれることになります。

また、この襲撃により、直弼を藩主とする彦根藩は8名の死亡と10名以上重軽傷者を出しており、直弼の警備をせずに逃げ帰った藩士を処刑しています。

「桜田門外の変」のその後

白昼堂々、大老の井伊直弼が討たれたとあっては、幕府の権威が失墜してしまうため、幕府はこの事実を隠し、直弼は病死したということにしました。

藩主を討たれた彦根藩が水戸藩に対し敵討ちの騒動を起こす恐れがありましたし、もともと幕府に対して問題を起こしていた水戸藩を取り潰すと、水戸藩士らによるさらなる暴発が考えられたため、これは苦肉の策でした。

しかし現場では数多くの目撃者がいたため、大老・井伊直弼の死は江戸中に広ってしまいます。

また、1862年1月15日、今度は老中・安藤信正が江戸城坂下門外にて水戸藩士に襲われたため、幕府の権威はどんどん落ちていきました。

 

島津久光による幕政改革

もはや幕府に政治を執行する力が無くなっていた同年3月。薩摩藩の島津久光が上京し、その軍事力をちらつかせて、幕府・朝廷・藩による公武合体の幕政改革を提唱し、かつて直弼に退けられた一橋慶喜や松平慶永等が重職に就きます。

この時、島津久光は安政の大獄により暴政を振るった井伊直弼を断罪し、直弼が藩主だった彦根藩は京都守護職を解かれ、石高が35万石から25万石まで減らされてしまいます。

結局この時の幕府の対応が仇となり、彦根藩は戊辰戦争の際に倒幕派へと回り、幕府と敵対して滅ぼすことになるのです。

 

「桜田門外の変」は成功しないはずだった?

大老・井伊直弼が暗殺されてしまうという大事件でしたが、本来は成功するはずがない事件でした。というのも、暗殺を実行した水戸脱藩浪士の不穏な動きは、幕府も事件の数日前から知っており、十分な警備を施す余地はあったのです。

しかし実際には、警備兵は20名しか配置されておらず、装備もすぐに対処できるような状態ではありませんでした。

過去に江戸城付近で大名行列が襲撃された例はなかったため、幕府側に油断があったのだと推察されます。さらに当日は雪も降って視界が悪かったため、襲撃する水戸脱藩浪士からすると好条件が重なっていました。

幕府としては、直弼の周りをもっと警備の人員を配置していれば、桜田門外の変を防げたはずでした。

 

水戸藩と薩摩藩は共謀していた?

この桜田門外の変ですが、実は水戸脱藩藩士の単独行動でなく、薩摩藩の協力もあるはずでした。当初は、水戸脱藩藩士が井伊直弼の首級を取った後に、薩摩藩の藩主・島津斉彬が江戸へ挙兵し、幕政を是正しようとしていたのです。

しかし、斉彬が挙兵前に急死してしまい、次に実権を握った島津久光は、大老への襲撃を容認しつつも実際に挙兵することはありませんでした。

襲撃企画責任者の高橋多一郎・庄左エ門父子は、大坂まで薩摩軍を迎えに行きますが、約束通り現れない薩軍に絶望して自刃しています。

その後の歴史を見ると、西郷隆盛を中心とする薩摩藩が倒幕の原動力となっていたため、幕府が安政の大獄で処罰すべきだったのは、水戸藩ではなく薩摩藩の志士だったのかもしれません。