明治天皇とは?誕生日やすり替え説、側室や家系図などについて解説!

1852年11月3日(嘉永5年9月22日)孝明天皇の第二皇子として誕生した明治天皇は1867年1月30日孝明天皇の崩御に伴い、天皇に践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐこと)、翌1868年10月12日に即位して内外にこれを宣下しました。

弱冠15歳、現在でいう高校1年生のときに幕末で揺れ動く日本の天皇となり、討幕派、佐幕派の板挟みのなかで大政奉還の勅許、王政復古の大号令を発して、明治新政府の樹立を宣言、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争を乗り越えて明治新政府の要人らと共に近代日本の礎を築きました。

また、明治天皇にはこのような史実として伝えられるていること以外に、すり替え説など謎めいた都市伝説が今もまことしやかに語られています。

表の歴史と裏の歴史、二つの明治天皇の歴史を、誕生日や側室、家系図なども含め、近代日本の歩みとともに振り返ってみたいと思います。

明治天皇の誕生日について

1852年11月3日生まれの明治天皇ですが11月3日と聞いて「文化の日」と思い浮かんだ方は歴史好き、もしくは暦好きな方なのではないでしょうか。

昭和天皇の誕生日・4月29日は崩御してからしばらくは「みどりの日」として祝日となり、5月4日に「みどりの日」が移動すると「昭和の日」の名称で現在も祝日として残っています。

しかし大正天皇の誕生日である8月31日は祝祭日扱いにはなっていません。どうして明治天皇の誕生日・11月3日は祝日になったのでしょうか?

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文化の日はこうして生まれた

明治天皇が崩御すると国民の間に「近代日本の礎を築いた明治天皇の功績を後世に伝えよう」という機運が高まり、政府もこれに応え、昭和2年(1927年)に「明治節」の名称で祝日となりました。

ところが太平洋戦争後の昭和22年(1947年)にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦前の天皇中心主義を彷彿させるとして「明治節」を廃止します。

このため日本政府は11月3日を祝日として残すために、この日を新憲法である日本国憲法の公布日として憲法記念日にしようと考えますが、明治天皇の誕生日と民主憲法である日本国憲法の公布日が同じなのはよろしくないとして再びGHQに反対されてしまいます。

ここで知恵を絞った日本政府は明治時代という新しい時代が「自由で平和を愛し、文化を進める」のを趣旨として「文化の日」と定めることにしました。これにはGHQの反対もなく、11月3日は今も「文化の日」としてカレンダーに記されているのです。

 

明治天皇の生涯・即位~戊辰戦争終結まで

明治天皇が正式に即位する前の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に徳川慶喜によって大政奉還が奏上され、翌15日に天皇はこれを勅許、その約2か月後の12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言しました。

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戊辰戦争の勃発

しかし、その2日後の12月11日には薩摩軍の挑発にのった幕府軍との間で戦闘が勃発、戦線は拡大し鳥羽伏見の戦いへと発展、翌1869年6月まで続いた戊辰戦争が開始されました。

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中央集権の確立

その間に五箇条の御誓文を発布、明治と改元して江戸城に入城、都を京都から東京へと移しました。

戊辰戦争の最後の戦いであった箱館戦争が終了すると天皇として版籍奉還、廃藩置県の政策を矢継ぎ早に勅許し、中央集権体制の確立をはかりました。

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明治天皇の生涯・神格化~崩御まで

思想面では国家神道(神道を国教とする)とし、天皇の絶対化、神格化を推進し、軍隊も「天皇の軍隊」とする軍人勅諭を発布、国会の開設に備えて立憲制の諸制度を整備し、内閣制度の導入とそれを支える官僚支配体制にも着手しました。

明治22年(1889年)2月11日に大日本帝国憲法を公布、天皇の絶対化、神格化の集大成として天皇大権を明記して立憲君主制国家の確立の基礎を固めました。

1894年の日清戦争、1904年の日露戦争では大本営で直接戦争を指導し、日英同盟や韓国併合、満州経営も積極的に進め、対外的な政策にも関与します。

その後も植民地拡大と富国強兵政策を推し進め、イギリスやフランス、ドイツなどヨーロッパ列強に肩を並べるところまで日本の近代化を推し進めましたが、1912年(明治45年)7月30日満59歳で自己を律することに厳しく、天皇としての威厳を守ることに神経を注いだ人生に終止符を打ちました。

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足利義満が将軍の時に南朝と北朝は統一されますが、南朝の流れを汲む皇子が長州藩に逃れここに居を構えて住んだため、皇統の血筋は幕末まで脈々と流れることになります。

幕末の水戸藩で南朝こそが正統であると言う水戸学が盛んになるとこれが全国に普及し、影響を受けた攘夷派浪士は南朝復活を願うようになります。

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天皇は暗殺された?

これを体現したのが南朝方武将・菊池氏の末裔を自認する西郷隆盛と南朝復活の鍵を握ると公言していた勝海舟、そして公武合体派の公家・岩倉具視の3人であり、これらが手を組んで北朝の末裔である孝明天皇を毒殺、八月十八日の政変で長州に落ちた三条実美が出会った南朝皇統の末裔・大室寅之介と明治天皇を入れ換えて即位させて皇統を南朝へ戻したという説です。

裏付ける歴史的資料がないため真偽のほどは不明ですが、話としては非常に面白味のあるものだと思います。

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明治天皇と西郷隆盛の関係

明治3年(1870年)に神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めるために岩倉具視や大久保利通などが明治天皇を近代国家の絶対的君主とするために宮廷改革を行ない、古い体制を辞めて天皇自身に近代国家日本の指導者、象徴として国民から畏敬されるために厳しい自己管理と天皇としての威厳の保持を求めました。

このため強い天皇を作るために西郷隆盛は何度か明治天皇を叱りつけたことがあります。

わがままを繰り返す天皇を叱りつけたり、女官にセクハラする天皇を相撲の練習のさいに殴り付けてこれを止めさせたり、馬から落馬して痛みを訴える天皇を「男は絶対に痛いとは言わないものです」と諌めたと言われています。

このため明治天皇は西郷隆盛をいたく気に入り、西郷隆盛の忠告は素直に受け入れました。

西南戦争で西郷がこの世を去った後、「朕を本当に思ってくれたのは西郷ただ一人であった」と周囲のものに語り、隆盛の死を悲しんだと伝えられています。

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映画「ラスト・サムライ」で二人の関係を描写?

余談になりますが、2003年に公開された「ラストサムライ・The Last Samurai 」(トム・クルーズ主演)のなかで渡辺謙演じる勝元と中村七之助演じる明治天皇の全編通しての心情の動きが明治天皇と西郷隆盛の関係を描いているのだと、監督で共同脚本のアイヴァン・モリスが語っています。

 

明治天皇の側室

明治天皇と皇后・一条美子(いちじょうはるこ・昭憲皇太后)の間に子供はなく、側室5人との間に5男10女をもうけますが生存したのは1男4女だけであとは死産か早世しています。
明治時代、側室は典侍(ないしのすけ/てんじ)と呼ばれており、葉室光子(はむろみつこ)、橋本夏子(はしもとなつこ)、柳原愛子(やなぎわらなるこ)、千種任子(ちくさことこ)、園祥子(そのさちこ)の5人が明治天皇のお側に仕えていました。

 

家系図や子孫

葉室光子との子孫

葉室光子は第一皇子を産みますが死産、葉室光子も4日後に亡くなっています。

 

橋本夏子との子孫

橋本夏子は第一皇女を産みましたがこれも死産で橋本夏子もその日に亡くなっています。

 

柳原愛子との子孫

柳原愛子は第ニ皇女、第ニ皇子を産みますがいずれも早世、第三皇子がその後誕生して成人し、後の大正天皇になります。

 

千種任子との子孫

千種任子は第三、第四皇女を産みますが、いずれもすぐにこの世を去りました。

 

園祥子との子孫

園祥子は第五~第十皇女、第四、第五皇子の合計8人の子を出産しますが、成人したのは北白川宮成久王(きたしらかわのみやなるひさおう)妃となった第七皇女、朝香宮鳩彦王(あさかのみややすひこおう)妃となった第八皇女、東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)妃となった第九皇女の3人のみでした。

このため、大正天皇以外に宮家を創設する男子がおらず後継に不安が残りましたが、大正天皇が4人の男子に恵まれ昭和天皇と秩父宮、高松宮、三笠宮の3つの宮家が創設され、皇統の血脈は今も絶えることなく日本の象徴として存在しています。

 

明治天皇という人物

幕末から明治維新の動乱期を若くして乗り切り、近代日本の新しい天皇像を作り上げる役目を果たさなければならなかった明治天皇は、茶目っ気があり日本酒をこよなく愛し、鞠を蹴り、乗馬好きで和歌を詠み、唱歌を歌う気さくな人柄だったそうです。

江戸時代の天皇とは全く違う新たな天皇像を作り上げ、新生日本の象徴となったその姿は大の写真嫌いのため、数点の肖像画と数枚の隠し撮りの写真しか残っていません。

そしてその御霊は京都府京都市伏見区桃山町のの伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)で安らかに眠っています。