昭和天皇とは?崩御や誕生日、皇后やマッカーサーとの関係について解説!

昭和天皇は日本の第124代天皇となった人物です。

歴代の天皇の中で、在位期間が最も長く、第二次世界大戦において、日本の敗北を認め連合国のポツダム宣言受諾決定に非常に大きく関わりました。

戦後、昭和天皇が癌を患うと、闘病中の昭和63年(1988)から、派手な行事、イベントが自粛されるようになり、崩御後もスポーツ、歌舞音曲を伴う行事が自粛されました。

そんな昭和天皇の誕生日や生涯、マッカーサーや香淳皇后との関係性を解説していきます。

昭和天皇の生い立ち

昭和天皇は明治34年(1901)東宮御所において明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)と皇太子妃・節子(後の貞明皇后)の第一子として誕生します。

誕生日の生後7日目に明治天皇が称号を迪宮、諱を裕仁と命名しました

明治39年(1906)青山御所内にある幼稚園に通った後、明治41年(1908)学習院初等科に入学し、この際、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)に学びを受けたとされています。

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皇太子となる

明治45年(1912)7月30日、祖父・明治天皇が崩御すると、父・嘉仁親王が践祚し、大正天皇となり、これに伴って皇太子となります。

明治から、大正に元号が変わった大正元年、11歳で陸海軍少尉に任官となり近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となりました。

大正3年(1914)学習院初等科を卒業すると翌月の4月から、東郷平八郎(海軍大将)の東宮御学問所に入り、大正4年(1915)になると陸海軍中尉に昇任、翌年も陸海軍大尉に昇任します。

大正7年(1918)1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王(後の香淳皇后)が皇太子妃に内定となります。

大正8年(1919)18歳となり成人を迎えると、5月7日に成年式が行われ貴族院皇族議員となり、大正9年(1920)10月に陸海軍少佐に昇任し11月4日に陸軍大演習を行います。

父・大正天皇の病状が悪化したため、大正10年(1921)3月3日から9月3日までの間、大正天皇に代わってイギリス、フランス、ベルギーなどの国を訪問し、同年11月25日に20歳で摂政に就任となりました。

久邇宮邦彦王の第一王女・良子女王との結婚が決まっていましたが、大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生したため結婚は延期となり、翌年の大正13年(1924)に結婚となります。

翌年の10月には陸海軍大佐に昇任し、12月になると第一女子・照宮成子内親王(後の盛厚王妃成子内親王)が誕生しました。

第124代天皇となる

大正15年(1926)12月25日父・大正天皇が崩御したため葉山御用邸において践祚し第124代天皇となりました。

これに伴い、大正から昭和に元号が変わり、良子女王は香淳皇后となります。

昭和2年(1927)父・大正天皇の大喪を行い、同年9月10日には第二子となる久宮祐子内親王が誕生しますが、翌年に、久宮祐子内親王は敗血症によって亡くなりました。

昭和4年(1929)即位してから初となる靖国神社親拝を行います。

同年9月30日には第三皇女・孝宮和子内親王(後の鷹司和子)が誕生しました。

その2年後の昭和6年(1931)3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(後の池田厚子)が誕生します。

 

桜田門事件

昭和7年(1932)昭和天皇は桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げられる桜田門事件が起こります。

この事件は昭和天皇の暗殺を目的とした朝鮮出身者の李奉昌による犯行で、犯人となる李奉昌は大逆罪に問われ、死刑となりました。

昭和8年(1933)第一皇子・継宮明仁親王(現在の天皇)が誕生、昭和10年(1935)4月になると東京駅で満州国皇帝の溥儀を出迎え、同年11月28日には、第二皇子・義宮正仁親王(後の常陸宮)が誕生しました。

 

日中戦争の勃発

昭和12年(1937)11月30日、日中戦争が勃発したため宮中に日本軍(陸海軍)の最高統帥機関である大本営が設置されます。

翌年1月11日には、御前会議において「支那事変処理根本方針」が決定されます。

当時、日中戦争は支那事変と呼ばれていました。

昭和14年(1939)第五皇女・清宮貴子内親王(後の島津貴子)が誕生します。

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開戦と終戦

昭和16年(1941)12月1日に御前会議においてイギリスとアメリカに対する開戦を決定し、12月8日に昭和天皇の名前において英国米国との戦闘状態に突入したことを記した「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」を発表し太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発となりました。

昭和20年(1945)3月10日、東京一帯はアメリカ軍によって、大規模な空襲を受けることなり、昭和天皇は3月18日に東京大空襲を受けた東京都内の被災地を視察を行います。

同年5月26日にもアメリカ軍によって空襲がなされ、宮殿も炎上するという被害を受けます。

その後、同年8月6日の広島への原子爆弾投下、8月9日のソ連対日参戦を受け、連合国の「全日本軍の無条件降伏」等の条約がなされたポツダム宣言の受諾を決断し、同年8月14日に終戦の詔書を発表しました。

この終戦の詔書は、昭和天皇に朗読、録音され8月15日にラジオ放送で流されました。(玉音放送)

この8月15日の玉音放送によって日本国民に終戦が伝えられます。

 

マッカーサーとの会談

その後、日本を占拠した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダラス・マッカーサーは昭和天皇との会談を希望しており、9月27日に昭和天皇は駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問し、マッカーサーとの会談を行いました。

この会談内容を、昭和天皇は生涯語らなかったとされていますが、一方でマッカーサーは関係者などの、昭和天皇との会談内容を話していたとされています。

同年11月13日には伊勢神宮に終戦の報告を行い、また神武天皇の畝傍山陵、祖父・明治天皇の眠る伏見桃山陵、父・大正天皇の多摩陵にも足を運び終戦を伝えました。

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戦後の復興活動

昭和21年(1946)1月1日、昭和天皇の詔書『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』が官報によって発布されます。

この詔書をマスコミや出版社は人間宣言と呼びました。

昭和天皇はこの人間宣言において、天皇の神格性などを否定し、「新日本建設への希望」述べます。

また同年2月から約9年かけて日本全国を巡幸します。

この巡行は戦後の日本の復興と、日本国民を励ますために行われました。

この巡幸によって、日本各地の国民は大いに喜び昭和天皇を出迎えたとされています。

同年、11月3日、マッカーサー草案に基づいて制作された日本国憲法を公布しました。

この日本国憲法には、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられ、象徴天皇として自身の一人称を朕ではなく私を用いるようになり、勅語という言葉を使用せず、お言葉という言葉が用いられるようになりました。

 

天皇陛下御在位六十年記念式典が行われる

その後、昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発行されます。

同年5月3日に皇居外苑で行われた主権回復記念式典の際には天皇退位説を否定しました。

昭和46年(1971)昭和天皇は香淳皇后と共にヨーロッパ各地を訪問し、昭和50年(1975)には、香淳皇后と共にアメリカを訪問します。

昭和51年(1976)になると天皇陛下御在位五十年記念事業として記念硬貨が12月23日に発行され国営昭和記念公園が設立されました。

昭和61年(1986)昭和天皇は即位、60周年を迎え、政府主催の天皇陛下御在位六十年記念式典が行われます。

昭和天皇の崩御

その翌年、昭和62年(1987)昭和天皇は天皇誕生日の祝宴中に体調を壊し、同年8月以以降も体調は悪化し続け腸閉塞と診断され9月22日に開腹手術が行われました。

この開腹手術の結果、慢性膵臓炎と発表され、翌年にも体調は回復せず昭和63年(1988)9月19日の午後10時頃に大量の吐血によって緊急搬送されます。

この時マスコミは、「天皇陛下ご重体」と報じ、テレビテロップには、昭和天皇の病状や血圧、脈拍などが表示されました。

また日本各地ではイベントなどが自粛されるようになります。

腺癌のため療養を行っていた昭和天皇でしたが、昭和64年(1989)に87歳で崩御となりました。

 

崩御後の自粛ムード

昭和天皇が崩御した後も日本各地は自粛ムードとなり、中日ドラゴンズのリーグ優勝は「祝勝会」を「慰労会」と名称変更、ビールかけの中止、また自衛隊観閲式、自衛隊音楽祭など自衛隊行事の中止、トヨタ・カリーナの「生きる歓び」というキャッチコピーが問題視され、ポスターの撤去などが行われました。

昭和天皇は歴代の天皇の中で在位期間が最も長い天皇となります。

 

昭和天皇の逸話

昭和天皇は蕎麦が大好物であった

秋山徳蔵は明治天皇、大正天皇、昭和天皇の料理番を務めた人物で「天皇の料理番」と呼ばれています。

そんな秋山徳蔵は、昭和天皇は大の蕎麦好きで、週1回は蕎麦を食べていた、またおはぎ、お汁粉、果物、和菓子などの甘い食べ物を好んで食べていたとも記録しました。

昭和天皇は、戦時中の食糧難時代には日本の食糧事情を配慮し、贅沢な食事は望まず国民を1番に考えていた人物であったと残しています。

 

生物学者として

昭和天皇は天皇の公務だけではなく生物学者として海洋生物や植物の研究なども行っていました。

生物学者の服部廣太郎の勧めによって変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)などの研究も行い、ヒドロ虫類の研究成果は裕仁の名前で『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』が刊行され、他に7冊が生物学御研究から刊行されました。

これまで、20冊に及ぶ研究成果が生物学御研究所編図書として刊行されています。

 

妻・香淳皇后

昭和天皇は妻・香淳皇后のことを「良宮」と呼び、昭和天皇は「お上」と呼ばれていました。

夫婦仲は良好で、手をつないで散歩に行くことがあったとされています。

また昭和天皇は爪を妻・香淳皇后に切らせていました。

 

最後に

昭和天皇は戦後、戦争責任に問われ退位も考えたとされていますが、日本の復興と国民を励ますことも天皇としての責任として、全国巡幸が行われました。

戦前、戦中、戦後を経験した昭和天皇の誕生日は現在では昭和の日とされ、祝日となっています。

この昭和の日をきっかけに、日本における戦争の歴史を学びなおしてみるのもいいかもしれません。