岩倉使節団とは?メンバーや目的、エピソードについて解説!

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岩倉使節団とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで、日本からアメリカ合衆国,ヨーロッパ諸国に派遣された岩倉具視をはじめ木戸孝允、大久保利通など総勢107名で構成された大使節団のことです。

この岩倉使節団は明治新政府だけでなく日本の将来に光と影の二つの面をもたらしました。

では、この岩倉使節団について、メンバーやその目的、エピソードなどについてご説明しましょう。

岩倉使節団の概要

明治4年11月12日に横浜港を出港した使節団はアメリカ・サンフランシスコに到着し、アメリカを横断してワシントン、その後大西洋を渡りイギリス・リヴァプールに到着、イギリス滞在後はフランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,ロシア,デンマーク,スウェーデン,イタリア,オーストリア,スイスを歴訪、その後はアジアのシンガポールや香港に立ち寄って日本に帰国しています。

その期間は約1年10ヶ月の長きに渡り、不平等条約の改正の下交渉や西欧文化に触れた留学生たちの帰国後の活躍などもありましたが、岩倉具視や木戸孝允,大久保利通など政府首脳がごっそりと日本を長期間空けてしまう事によって、政治が停滞する事態を招き、日本に残った留守政府との間に修復しがたい対立を生んでいきました。

岩倉使節団の光と影とは、日本の産業や教育の発展と国際社会での日本の地位向上とを引き換えに、国を二分する深刻な政治的対立を招いてしまったことです。

 

岩倉使節団のメンバー

岩倉使節団は総勢107名の大使節団で、特命全権大使・岩倉具視を筆頭に副使・木戸孝允(桂小五郎),大久保利通伊藤博文,山口尚芳,一等書記官・田辺太一,福地源一郎以下二等,三等,四等書記官,大使随行,理事官,留学生などのメンバーで構成されていました。

この書記官や留学生の中には土佐藩出身で陸援隊副隊長だった、後の陸軍少将,警視総監となった田中光顕や、長州出身で戊辰戦争で活躍し陸軍中将、伊藤博文内閣で司法大臣を勤めた山田顕義、自由民権運動の指導者で東洋のルソーと評された中江兆民、女子英学塾(現在の津田塾大学)を創設した津田梅子、通訳として同行していた同志社大学の創設者である新島襄などがおり、この岩倉使節団は多くの政治家や教育者を輩出することになりました。

 

岩倉使節団の目的

この岩倉使節団には大きな目的が2つありました。それは、欧米15ヵ国と締結していた不平等条約の改正を目指すための下交渉と、西欧文化の吸収のためにウィーン万博やスエズ運河の視察することです。

視察の方は時間がかかったものの順調に行われましたが、条約改正の下交渉に関しては日本の法整備の不備などを欧米政府に突かれて、ほとんどが失敗に終わりました。

 

岩倉使節団のエピソード

ここで、岩倉使節団に関する一つのエピソードを紹介します。それは岩倉使節団とドイツの首相・ビスマルクとの間で交わされた会話についてです。

当時、日本は欧米列強にならい、自国に「国際法」を導入することを検討していました。しかし、ビスマルクは「弱い国が国際法を導入しても、その権利が守られるという保証はない。まずは日本が強くなることが重要だ」と一行に伝えたそうです。

つまり、日本が抱える不平等条約を是正できたとしても、力を持つ欧米列強の前では、その国際法が有効に働くとは限らないということですね。

日本よりいち早く欧米列強の仲間入りを果たしたドイツのビスマルクが語る言葉に影響を受け、日本はドイツの政治体制をお手本にし、近代化を進めて行くことになりました。

征韓論を巡り、岩倉使節団と留守番政府が対立?

この岩倉使節団は元々、大隈重信の発案から出たもので、小規模な外交使節団を欧米へ送る程度の考えだったものが、明治政府首脳らのそれぞれの思惑でいつの間にか大規模な使節団を派遣することになっていました。

2年近い欧米視察のため、その間に起こる政治空白などを恐れた大久保利通や木戸孝允は、使節派遣中の留守政府に大きな改正を行わないこと、人事に関してはこれを極力行わないことを約束事として盟約書を締結します。

しかし、太政大臣・三条実美を筆頭に、西郷隆盛,井上馨,江藤新平らは、国内に山積する難題を次々に議題にのせ徴兵制や地租改正などを積極的に行い、使節団との約束を反故にしていきました。

 そして政策として大久保利通らをもっとも激怒させたのが、西郷隆盛が唱えた征韓論でした。

 

大久保利通らは反対

この征韓論は徴兵制や地租改正とは異なり、大久保利通らが外遊する前には全く政治的議題には上がっておらず、自分達の留守中に西郷隆盛が後藤象二郎・江藤新平・大木喬任を勝手に参議に追加して支持者を拡大させ、征韓論を実行に移そうとしていたのです。

とはいえ、さすがに留守政府だけで実行に移すのは無理があると考えた西郷隆盛らは岩倉使節団の帰国を待ち、征韓論の是非を問います。しかし、日本と欧米の実力差を認識してきた大久保利通らは国内の産業整備を優先し、朝鮮半島への出兵に繋がる可能性を秘める征韓論には絶対に賛成できませんでした。

結果的に大久保利通ら使節団組がこの対立の勝者となりますが、西郷隆盛や板垣退助,江藤新平らは参議を辞して下野することになり、これに多くの官僚や軍人が従い、政府の職を辞することになっていきます。

この使節団と留守政府の対立を明治六年政変といい、不平士族の反乱~佐賀の乱や、西南戦争へ繋がっていきます。

 

まとめ

政変に勝利した大久保利通らでしたが、九州を中心にした不平士族の反乱や西郷隆盛が起こした西南戦争は国を二分する戦争となり、多くの犠牲者が出ました。

またこの政変の途中で木戸孝允が病没、西南戦争後に大久保利通も不平士族の残党に襲撃されて亡くなってしまうという悲劇に見舞われます。

結局、この政変で対立した使節団メンバーや留守政府の主要人物は命を落とすというもっとも虚しい結末を迎えます。

岩倉使節団の欧米への派遣は、新しい時代を拓くということが、どのような形をとっても多くの犠牲を払うことを教えてくれる歴史に残る出来事だったのです。