大久保利通の暗殺・紀尾井坂の変を解説!犯人や理由、場所は?

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明治維新を成し遂げた重要人物の一人として歴史に名を残した大久保利通ですが、最後は彼に不平を抱く士族によって暗殺されてしまいます。

1878年(明治11)年5月14日に起こった「紀尾井坂の変」として記録されるこの暗殺事件の犯人は誰なのでしょうか。

また、実際に事件が起こった場所や犯人の理由、当時の時代背景などについても解説していきたいと思います。

「紀尾井坂の変」が起こる前の状況

当時は西郷隆盛が起こした国内最大級の内戦である西南戦争が終わった頃です。

士族が次々と反乱を起こす内乱の時代から、新政府による安定した時代が始まる黎明期でした。

当時、大久保利通は内務卿として実質的に日本の政治のトップを担っており、まさにこれからの日本の行く末を担う最重要人物でした。

 

明治の時代を作る30年計画の構想を話していた?

事件当日、大久保利通は福島県令・山吉盛典から訪問を受け、様々な政策について意見を交わしていました。

その中で、大久保利通はこれからの明治時代について、30年計画の構想というものを福島県令・山吉に話していました。

その内容が以下の通りです。

最初の10年は第一期として“創業期”

次の10年は第二期として“内治整理・殖産興業・富国強兵”

最後の10年は第三期として“完成期”

第二期までを利通自身が構築し、第三期は後継者に引き継ぐことで、この30年計画を完成させたいと考えていました。

壮大な計画ですが、まだ第一期のスタート時点で利通は亡くなってしまったのですね。

 

暗殺現場は「紀尾井坂」。本来なら暗殺されずに済んだ?

福島県令との面談が終わった後、午前8時、利通は裏霞ヶ関の大久保邸を出発し、明治天皇に謁見するため赤坂の仮皇居に向かいます。

紀尾井坂はその途中にあった坂ですが、実は目的地からは遠回りの道なのです。

赤坂見附を通る道の方が近道だったのですが、利通は「人通りが多くて危険だから」という理由で、あえて紀尾井坂の道を選んだようです。

これが裏目に出てしまうのです。赤坂見附の道を通っていれば、暗殺を防ぐことができたのかもしれません。

ちなみに紀尾井坂とは、現在の参議院清水谷議員宿舎前の坂のことです。

 

大久保利通暗殺時の状況

利通を乗せた馬車が紀尾井町一丁目に差し掛かった時、書生姿の男二人(暗殺者)が摘み取った花を手に持って道に出てきます。

この時は何事もなくやり過ごして馬車は進みましたが、直後に別の男二人が同様に花を持って馬車の前に立ちすくみます。

馬車の運転手が二人に道を開けるよう伝えますが、二人はそれを無視していきなり馬に切り掛かります。

驚いた馬が逃げようとしましたが、二人組はそれを刀で制止します。

それと同時に、馬車の後ろから、事件の中心者である島田一郎を含む四人の男が短刀を持って馬車に襲い掛かります。

馬車の中で読書をしていた利通でしたが、異変に気付き逃げようとします。しかし、馬車の扉のまで島田一郎に切りつけられ、引きずり下ろされてしまいます。

この行為に対し、利通は島田らに「無礼者!」と一喝します。

その後、全員から刀で襲われましたが、利通は一度立ち上がったそうです。しかし最後は絶命し、利通は暗殺されてしまいます。

しばらくすると、運転手の助けによって警官が現場に駆けつけ、島田ら六人はそのまま赤坂仮御所に出頭し自首しました。

国に多大なる貢献をした利通に対しては、近代日本史上最初の国葬級の葬儀が執り行われました。

事件当時、護衛がついていなかったため、暗殺がいとも簡単に実行されてしまいますが、この事件を契機に、政府の高官の移動時には護衛がつくようになったと言います。

暗殺を実行した犯人は誰?

紀尾井坂で実際に暗殺を実行した犯人は、石川県士族の島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一、島根県士族・浅井寿篤の計6人です。

中心人物の島田一郎は、加賀藩の足軽として第一次長州征伐や戊辰戦争に参戦しており、明治維新後も軍人としての経歴を積んでいます。

島田は西郷隆盛が唱えた征韓論を支持していましたが、大久保利通ら当時の政府は征韓論を拒否。

それによって、西郷は政府の職を辞めて故郷の鹿児島に戻りますが、島田はその政府の対応に激怒し、以降、政府への反乱を企てるようになります。

そして、島田の考えに賛同する人物が集まり、この「紀尾井坂の変」が起こることになったのです。

自首をしてから約2ヶ月後の7月27日、島田ら6人には斬刑の罪が言い渡され、即日刑が執行されました。

 

暗殺の理由と黒幕は?

事件当時、中心者の島田一郎は大久保利通を暗殺する理由が書かれた文書を持っており、それには以下のように記されていました。

  1. 国会も憲法も開設せず民権を抑圧している。
  2. 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
  3. 不要な土木事業・建築により国費を無駄使いしている。
  4. 国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした。
  5. 外国との条約改正を遂行せず国威を貶めている。 

明治維新に貢献した自分たち士族を不平等に扱い、その結果生じた西南戦争によって尊敬する西郷隆盛を死に追いやり、さらには国の権力を使って私腹を肥やしていることに我慢ならない!といった内容でしょうか。

大久保利通は西南戦争時の政府軍のトップだったこともあり、あらゆる点で彼に恨みが集まったのでしょう。

大久保利通と西郷隆盛については、西南戦争では敵対関係にあった二人ですが、もともと親友だった西郷の訃報を聞くと、利通は号泣したと言います。

また、暗殺事件当日、利通は西郷からの手紙と、それに対する返事を書いた手紙を持っていたようで、西郷を慕う利通の姿を見ることができます。

この事件の実行犯は島田らの一行でしたが、実は西郷隆盛の側近や近しい関係にある人が黒幕だという噂もありますが、仮に暗殺の首謀者が西郷に近い者だとしたら、悲劇とも言える事件ですね。

 

大久保利通の独裁政治と清廉潔白さ

暗殺理由として島田が利通の独裁政治を挙げていますが、確かに当時の政府は実質的に大久保利通の独裁政治だったそうです。

しかし、利通はその権力を使って私腹を肥やすなどということは決してしておらず、むしろ私財を投げ打って国のために必要な公共事業を展開していました。

そのため、利通の死後は8000円(当時でいう1億6000万)ほどの借金が残ってしまいます。

しかし、利通の志をよく理解していた債権者は、残った借金の取り立てをしなかったということです。

この話から、利通は本当に日本のためを思って奮闘していた真の政治家だったということが伝わってきます。

大久保利通という、当時最も重要だった人物が亡くなってしまったのは、日本にとって大きな損失だったと言えるでしょう。

 

大久保利通含む7名の政府高官が狙われていた?

紀尾井坂の変を実行した島田ら一行でしたが、彼らは利通を含む7名の政府高官の暗殺を企んでいたと言います。

その7名とは、木戸孝允・大久保利通・岩倉具視・大隈重信・伊藤博文・黒田清隆・川路利良です。

木戸孝允は当時既に死去していたので、大久保利通が次のターゲットにされてしまったようですね。

この標的にされた人物の一覧から、暗殺の首謀者は西郷隆盛に近い関係者なのではないかという噂が立ったのです。

 

さいごに

大久保利通が暗殺された紀尾井坂の変について、実行した犯人やその理由、また当時の時代背景などについて書いてきました。

志半ばで亡くなった利通の無念は計り知れないものがあったでしょう。

政府の要職に就くということは、当時では命がおびやかされる大仕事だったのですね。