彰義隊とは?上野戦争における隊士の戦いや墓について解説!

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彰義隊とは徳川慶喜を守るために、一橋家の家臣である渋沢成一郎、天野八郎らが結成した警護部隊になります。

上野戦争という戦争をお聞きになったことがありますでしょうか。幕末と言えば、戊辰戦争、または、榎本武揚が率いた函館で起こった函館戦争が有名ですが、上野戦争とは新政府軍と彰義隊が戦った戦争になります。ちなみに、新政府軍を指揮していたのは、維新十傑の一人大村益次郎です。

上野戦争破れた後、彰義隊の隊士らはどうなったのでしょうか、また、彼らの墓はどこにあるのでしょうか、詳細に解説していきたいと思います。

彰義隊とは 

明治元年、戊辰戦争の始まりとなった鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜は江戸城に戻り、新政府に恭順の意を表した後、上野寛永寺にて蟄居します。

その慶喜の態度に不満をもった一橋家臣・本多敏三郎は、雑司ヶ谷にあった茗荷屋に有志を募り、慶喜の復権、助命等についての相談を行います。その後、四谷鮫ヶ橋にある円応寺へと場所を移し、再び相談の場をもちますが、なかなか良い案が浮かびません。

そこで、本多敏三郎は、幕臣にも声をかけることを決意します。

 

彰義隊発足

渋沢成一郎に相談し、幕臣はもとより、他の藩の隊士らにも声をかけて有志を集め、尊王恭順有志会を結成しました。その際、「尽忠報国(国に報いて忠を尽くす)」、「薩賊」と掲げた血誓書が作成されています。

2月23日に、浅草本願寺において結成式を行いますが、その際、阿部杖策の発案を受け、「大義を彰かにする」という意味をもつ彰義隊と改名。再び、血誓書を作成します。

徳川慶喜が蟄居したのが、1868年2月12日。彰義隊と命名されたのが、2月23日。この間、わずか11日の出来事です。

ちなみに、頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が選出されています。当初の有志は17名でしたが、3月末には千名を超える大所帯となり、4月3日には、浅草本願寺から寛永寺へと拠点を移しています。

 

寛永寺にて挙兵

4月11日、江戸城無血開城を果たすと、徳川慶喜は水戸へ戻ることとなり、彰義隊は、千住から下総松戸までの間を護衛した後は、寛永寺へ戻ります。

寛永寺貫主を兼ねていた日光輪王寺門跡公現入道親王を擁し、徳川家霊廟守護を名目に江戸に残り続けます。新政府軍を良しとしない脱藩兵が集まりはじめ、最終的には、3000~4000人という規模に膨れあがりました。

この不穏な空気に、勝海舟は武力衝突を避けるため、彰義隊の解散を促しますが、彼らは聞き入れません。この状態でも冷静であった渋沢成一郎は江戸を出て日光への移動を進言しますが、天野八郎が強固に反対し、意見は分裂します。

 

渋沢成一郎離脱

その意見の分裂を受け、天野派の隊士は、渋沢の暗殺を図りますが、失敗。そのことを受け、渋沢成一郎は彰義隊を離脱し、振武軍を結成した後、再び、活動を開始します。

この時代、江戸は、幕府復興を名目に、旧幕府陸軍兵士らが盗賊となり、放火、強盗が繰り返され、無法地帯さながらの状態と化してしたのです。

事態を重くみた勝海舟は、彰義隊を懐柔すべく、江戸市中取締役を任命し、盗賊の取締りを命じます。

その頃、京都に陣を置く明治新政府は、関東で起こっている出来事の原因は彰義隊にあるとの考えから、勝海舟、西郷隆盛に任せてはいけないと判断し、彰義隊討伐に向けて、大村益次郎を派遣します。

上野戦争勃発

1868年5月1日。新政府は彰義隊に対し、江戸市中取締の任を解くこと、また、新政府軍が彰義隊の武装解除を行うことを通告します。その後、14日、大村益次郎の指揮による武力討伐が決定し、彰義隊討伐の布告が出されます。

7月4日、大村益次郎は寛永寺に立てこもる彰義隊に対し、総攻撃を行います。午前中は、上野山王台からの関宿藩卍隊による激しい砲撃、隊士らの攻撃に遭い、撃退されますが、正午からは、肥前佐賀藩がもっていたアームストロング砲による砲撃を行い、わずか1日で彰義隊を撃破します。

この時の戦死者の数は、彰義隊は約200名、新政府軍は約100名と発表されています。

渋沢成一郎が率いた振武軍も、彰義隊の援護にと上野に出向きましたが、上野までの道筋で彰義隊の敗北を聞き、逃げる隊士らと合流し、退却しています。

 

上野戦争後の彰義隊 

上野戦争後の彰義隊の隊士は惨めなものでした。亡くなった隊士に縁のある人が引き取りを申し出ても、答えは却下。200名もの死者は、幾日もそのまま捨ておかれていました。

ちなみに、明治新政府から、供養を行っても良いとの許可が出たのは1874年で、上野戦争から5年以上過ぎていることになります。三ノ輪円通寺住職仏磨らの手により、茶毘に付されました。

生き延びた隊士たちは、すべてではありませんが、江戸を出た後は会津へ、東北へ、箱館へと辿りつき、最後は箱館戦争に参戦しています。

明治新政府による彰義隊の生き残りへの追及は厳しく、天野八郎は市中に紛れ、逃走を図りましたが、密告によって捕らわれの身となり、約5か月の投獄後、肺炎で命を落としています。享年38歳でした。

 

彰義隊士の墓について

彰義隊士の墓は、寛永寺の御用商人三河屋幸三郎が見るに見かねて、荼毘に付したと記録されています。

隊士の遺骨は円通寺に埋葬され、近親者らが墓碑を建立したとのことです。

彰義隊と縁のあった寛永寺子院の寒末松院、護国院住職らは、密かに「彰義隊戦死之墓」と刻まれた墓碑を造りますが、表立って供養することはできませんでした。

明治7年、元彰義隊士であった小川興郷等の努力により願いが叶えられ、翌年明治8年、上野に、彰義隊士の墓が建立されています。代々、墓守を務めたのは、小川興郷の子孫になります。