濃姫(帰蝶)とは?織田信長の妻の最後など、その生涯を解説!

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濃姫(のうひめ)は織田信長(おだのぶなが)の正室とされている女性で、数々の織田信長を語る歴史物語や、映画、時代劇、舞台などに登場する女性として有名です。

歴史的に織田信長に嫁いだとされる記録のみが残されており、生没も不明で子を残した記録もなく、濃姫という名前も江戸時代の「絵本太閤記」や「武将感状記」の中で「美濃からきた姫」と言う意味合で定着しただけで、本来の名前は、帰蝶(きちょう)、もしくは胡蝶(こちょう)であったとされています。

織田信長に嫁ぎ妻となった以外に、あまり歴史的に多くの記録が存在せず、本能寺の変以後名前が登場することがほとんどありません。

そんな謎多き女性、濃姫について織田信長の死後どのように生きたのか。どのような最後を迎えたのか。スポットを当てて紹介していきたいと思います。

濃姫(帰蝶)の生い立ち

濃姫は天文4年(1535年)まむしと呼ばれた美濃国・斎藤道三(さいとうどうさん)の娘として生まれました。濃姫の母は斎藤道三の正室である小見の方で、後に本能寺の変を起こす明智光秀(あけちみつひで)の叔母にあたるので、濃姫と明智光秀は従兄妹の間柄です。

残念ながら濃姫の幼少時の詳しい記録などは確認できませんでしたが、正室唯一の娘として育ちました。

 

二度の政略結婚

濃姫は織田信長に嫁いだ事は歴史的にも記録があり大変有名ですが、織田信長に嫁ぐ以前に一度政略結婚の形で嫁いでいます。ただし、歴史的に確定はされていません。

濃姫の父・斎藤道三は濃姫が5歳ほどの頃、守護・土岐頼芸(ときよりのり)を放逐、兄弟を殺害して美濃国の国主になりました。

土岐頼芸は織田信長の父である尾張国・織田信秀(おだのぶひで)を頼ったので、斎藤道三と織田信秀の間で戦となります。同時に、越前の朝倉孝景(あさくらたかかげ)の加勢を受けた土岐頼芸の甥・土岐頼純(ときよりずみ)も攻め込んできたので、斎藤道三は苦戦を強いられたのです。

結局斎藤道三は、織田家と、織田信秀の嫡男・吉法師丸(後の織田信長)と娘を結婚させる契約を結び、朝倉家とも土岐頼純へ嫁がせることで織田家・朝倉家双方と和睦しました。

斎藤道三には濃姫以外にも側室の産んだ姫もいましたが、織田家とは一旦婚姻の話は保留となり、正室との唯一の娘である濃姫はまず、土岐頼純へ11歳で嫁ぐ事になったのです。

しかし濃姫が嫁いで1年もせずに夫となった土岐頼純は、大桑城落城の際に討死、または突然亡くなってしまい、濃姫はあっけなく国へ帰る事となります。

一方で、斎藤道三と織田信秀は和睦後も大垣城を巡って、小競合いを続けていました。そこで、一旦保留となっていた縁組の話が再度持ち上がり、数え15歳となっていた濃姫は再び政略結婚として織田信長に嫁いだのです。

 

濃姫の逸話

濃姫についてはあまり多くの資料や記録がないのですが、織田信長に嫁いだ前後に興味深い逸話が残されているので紹介したいと思います。

 

逸話① 短剣の話

織田信長に嫁ぐ事が決まり、父・斎藤道三から「織田信長が噂通りの大うつけで愚か者ならば刺せと」言われて短刀を渡されました。それに対して濃姫は「父上を刺すことになるかもしれません」と答えたと言います。

 

逸話② 信長の画策

婚姻後1年ほどが過ぎ、濃姫が寝入った頃合いを見て織田信長は寝所を抜け出し暁に戻るという行動を繰り返すようになります。

その事を不審に思い濃姫は織田信長に尋ねました。すると織田信長は「謀反を起こす斎藤家の家老からの連絡を待っている。これは密計である」と答えたのです。

濃姫はこのことをすぐに父・斎藤道三に伝えました。結果、家老の裏切りを疑った斎藤道三は、家老・堀田道空、春日丹後守を殺害したのです。しかし、これは織田信長が張り巡らせた離間策でした。

嫁ぐ際の父への返答、嫁でありながら実家への密告など、濃姫は戦乱に生きるたくましい女性というイメージが垣間見れます。

織田信長の死後

濃姫は、斎藤家菩提寺・常在寺に斎藤道三の肖像を寄進した記録以後、歴史から姿を消しています。

濃姫の最後で解説しますが、織田信長が本能寺の変で亡くなった時に同時に亡くなったとされる説や、長生きして天寿を全うした説などいくつかの説がありますが、歴史上は織田信長の死亡以後の足取りは謎のままなのです。

 

濃姫の最後

濃姫の最後にはいくつかの説が存在しますが、その中から有力な説を二つほど紹介します。

 

①織田信長と共に本能寺の変で長刀を振るい戦って共に死んだとされる説

岐阜県岐阜市不動町にある「濃姫遺髪塚」の説明板に、本能寺の変の折、織田信長公と共に討死、家臣の1人が遺髪を持ってこの地へ逃れ来て埋葬したものと記載されています。

 

②織田信長の死後、「安土殿」と称され天寿を全うしたとされる説

徳川家の大名として織田家を存続させた織田信長の二男・織田信雄(おだのぶかつ)の知行目録である「織田信雄分限帳」に「安土殿」という名があり、この「安土殿」こそが濃姫だとされています。

また、安土・総見寺に所蔵されている織田家過去帳「泰巌相公縁会名簿」に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記載されていて「御台」となっている事から濃姫だと推測されています。