斎藤道三とは?家紋や娘、城や織田信長との関係について解説!

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織田信長の正室・濃姫の父親であり、「美濃のマムシ」と恐れられ、最近ではNHK大河ドラマ「国盗り物語」でも知られている人物、それが斎藤道三です。

自分の娘を織田信長に嫁がせた政略結婚、ともに協力して天下取りを目指したものの、最後は敵となってしまった明智光秀との関係、さらには居城とした稲葉山城や斎藤家の家紋の意味など、油売り商人から大名までのし上がった斎藤道三について解説します。

斎藤道三とは

1494年(明応3年)山城にて松波基宗の子として誕生しました。

幼いころは妙覚寺に僧侶として入り、山崎屋と号して油売りを生業としています。

美濃の有力者であった長井氏に仕官すると、さらに土岐頼芸氏を紹介され、道三は頼芸に仕えることとなります。

油売り時代から頭の回転が早く、器用だった道三は当時美濃を支配していた「土岐家」の一人である「頼芸」をうまく誘導して、大名であった土岐政頼に対して、クーデターを実行しました。

その結果、政頼の追放に成功し頼芸が美濃の大名となると、道三はその一番の家臣となりました。

しかし彼らのやり方や、道三の台頭をよく思わない他の家臣も多く現れるようになりました。

すると道三は、もともと道三を土岐頼芸に紹介した長井氏を殺害し、長井家の城であった「稲葉山城」を居城としました。

さらに勢いは止まらず、守護職であった齋藤氏を継ぐと、自らの主人である土岐頼芸に対してもクーデターと実行し、頼芸を追放しました。

そして美濃国を奪うと、ついに道三は一国一城の戦国大名となりました。

 

織田信長との関係と齋藤家の滅亡

美濃国を追放された土岐氏は、国を奪い返そうと尾張の織田家に協力を求めました。

そこで道三は、自らの娘「濃姫」を織田信長のもとへ、嫁がせることにします。

道三は織田信長にとって叔父の関係ということになります。

1553年、道三は信長とともに、正徳寺で会見を開きました。

そして土岐家の勢力をけん制するために、元土岐家側の側室との息子である齋藤義龍に家督を譲ります。

しかし道三の思惑は外れ、義龍は土岐家の有力者の支持を受け、父である道三にクーデターを実行、その戦いに敗れた道三は、そのまま命を落とすこととなりました。

道三の死後、齋藤家の滅亡へ

濃姫結婚で、齋藤家と織田家は同盟を結んでいましたが、道三の死をきっかけに、両家の中は再び険悪なものになりました。

その後、義龍は美濃の国の勢力をさらに強め、攻め込んでくる織田家を迎え撃ちますが、どちらも決定打に欠け、そのまま推移していきます。

永禄3年の桶狭間の戦いで、今川家を打ち取った織田家は、徳川家康らと手を組み、本格的に美濃の国の攻略に着手します。

そんな中、齋藤道三を倒し、美濃の国を治めていた義龍が伝染病により亡くなってしまいます。1561年、義龍が34歳の時でした。

義龍の後をわずか14歳の若さで継いだ龍興ですが、その若さゆえ、技量のなさから次々と家臣が織田家へと寝返り、1567年、美濃の国は織田家に占領されると、ついに齋藤家は滅亡しました。

 

織田家も苦戦した「稲葉山城」

美濃の守護代、齋藤利良が死亡し、稲葉山城の城主になった道三城の大改築を行い、オリジナルの城を作り上げます。

城の前方には長良川が流れ、いくつもの山々に囲まれた道三の城は、あの織田家も何度か攻略に失敗しています。

そんな稲葉山城を奪い取った戦いが「稲葉山城の戦い」です。後に信長は稲葉山城を岐阜城と改め、居城としました。

 

齋藤道三と明智光秀

明智光秀の父、光綱は道三の家臣でした。

そのことから光秀も、比較的早い段階から道三の家臣として仕えていたと言われています。

齋藤家の家紋

齋藤道三はもとは齋藤という苗字ではありませんでしたが、齋藤と名乗るようになってから、家紋を使い始めたと言われています。

齋藤家の家紋には「撫子」の家紋が使われていましたが、道三自身はあまりこの家紋は使用していなかったようです。

そのため道三は「二頭破門」と呼ばれる、波をイメージしたオリジナルの家紋を使用していました。

この家紋の意味は、「水のようにどんな形にも変化して、様々な変化に対応できる」「波のような押し引きで、対象物を打ち砕く」など諸説あります。

 

道三の娘、濃姫

帰蝶とも呼ばれている濃姫は、齋藤道三の三女として、1535年に誕生しました。

一説によると、明智光秀とは従妹同士とも言われています。

織田信長の正室である濃姫、テレビドラマなどで度々登場していますが、実は現在も謎が多い人物であります。豊臣秀吉や徳川家康がその資料や文献を捨ててしまったことが、その理由です。

齋藤家と織田家の政略結婚のために信長のもとへ嫁ぐこととなった濃姫、織田信長と結婚したのは、1548年、濃姫が14歳~15歳の頃です。

信長と濃姫の間に子供はおらず、側室の乃が生んだ信忠を、乃の死後に養子として迎えいれています。

濃姫のその後ですが、婚姻に関する部分しか文献が残っていないため、正確な情報は分かりませんが、戦死した説や病死説、また一部では別人として長生きしたのではないかと言われています。