斎藤義龍は、「美濃国のマムシ」と恐れられた斎藤道三の息子です。
幼少期は謎に包まれていますが、天文23年(1554年)、父・斎藤道三の隠居に伴い美濃守護代斎藤氏の家督を譲られ、稲葉山城主となりました。
しかし、父・斎藤道三と対立関係となり弘治2年(1556年)、両者の間で長良川の戦いが勃発しました。
そんな斎藤義龍の生い立ちや斎藤道三との関係性、また家紋やハンセン病について解説します。
斎藤義龍の生い立ち
斎藤義龍は戦国時代にあたる大永7年(1527年)7月8日、美濃の戦国大名である斎藤利政(後の斎藤道三)とその側室・深芳野の長男として誕生しました。
斎藤義龍には10人の兄妹がおり、その中には後に織田信長の正室となる濃姫や後に対立関係となる弟・孫四郎、喜平次がいました。
斎藤義龍がどのような幼少期を送っていたのかはあまり分かっていませんが、天文五年(1536年)に元服を行ったとされています。
家督を譲られる
天文23年(1554年)2月22日から3月10日にかけて父・斎藤道三は、鷺山城に隠居します。
父・斎藤道三が隠居した理由として、斎藤氏に仕える家臣団からの信頼が得られなくなったためと考えられています。
一方で斎藤道三は隠居していなかったという説もありますが、長男である斉藤義龍は父・斎藤道三
から美濃守護代斎藤氏の家督を譲られ、現在の岐阜県岐阜市稲葉山にあった稲葉山城主となりました。
父・斎藤道三と対立
家督を長男である斎藤義龍に譲った父・斎藤道三でしたが、次第に斉藤義龍を「おいぼれ」と評価し冷遇するようになります。
一方で、斉藤義龍の弟である孫四郎や喜平次を父・斎藤道三は溺愛するようになっていきました。
父の斎藤道三がなぜ長男である斎藤義龍に対し冷たい態度をとったのかは明確には分かっていませんが、斎藤義龍が側室との間に誕生した子供であるからではないか。と考えられています。
溺愛されていた弟である孫四郎や喜平次は斎藤道三とその正室・小見の方(明智光秀の叔母)との間に誕生した子供であったとされています。
斎藤義龍は長男であったことから、家督を継ぐことができましたが、父・斎藤道三は正室との間に誕生した孫四郎や喜平次に家督を継がせたかったのではないでしょうか。
このような背景から父・斎藤道三は次第に斉藤義龍に対し冷たい態度をとるようになっていき、ついには斉藤義龍を廃嫡し、正室・小見の方との間に誕生した孫四郎に家督を継がせようとします。
また正室との間に誕生した弟・喜平次には「一色右兵衛大輔」と名を与え、名門である一色氏を名乗らせるようになりました。
斉藤義龍は父の行動を危険視するようになり、ついに、父・斎藤道三と対立を起こすのでした。
長良川の戦い
弘治元年(1555年)、斎藤義龍は叔父である長井道利と協力し、弟の孫四郎・喜平次を日根野弘就に殺害させます。
その後、弘治2年(1556年)、ついに父・斎藤道三との間で戦が始まりました。
この戦いは長良川の戦いと呼ばれています。
この戦いにおいて斉藤義龍の戦力は約17500人に対し、父・斎藤道三はわずか約2700人でした。
父・斎藤道三に戦力が集まらなかった理由として国主となるまでの経緯が悪かったからとされています。
斎藤道三に戦力が集まらなかった理由
父・斎藤道三は美濃国の国主となるまでの間に、当時仕えていた土岐家の大名である土岐政頼に対しクーデターを起こし、土岐政頼を追放させる、美濃の有力者であった長井氏を実質乗っとるなどを起こしていました。
このような経緯があり国主となることができましたが、斎藤道三のやり方は周囲の反発を買う結果となったのでした。
長良川の戦いに勝利
国主となる経緯が悪かったため、父・斎藤道三には戦力が集まらなかったとされ、斎藤氏の有力家臣である西美濃三人衆や、多くの家臣たちは斎藤義龍を支持することとなり、父・斎藤道三に対し、斉藤義龍は多くの戦力を集めることができたのでした。
乱戦となった長良川の戦いは斉藤義龍の勝利に終わります。
息子に敗北した父・斎藤道三はこの戦いで亡くなったのでした。
この戦いにおいて尾張国の織田信長が斎藤道三の救援に駆けつけましたが、戦には間に合わなかったとされています。
勢力拡大は叶わず
その後、斎藤義龍は内政や外交といった政務を行いました。
室町幕府第13代将軍・足利義輝からは足利氏の一門である一色氏を名乗ることを許され、また父親殺しの汚名を避けるため一色義龍と名乗り始めます。
永禄元年(1558年)には治部大輔となり、永禄2年(1559年)には室町幕府の重要な役職である相伴衆となりました。
また南近江の戦国大名・六角義賢との間で同盟を結び、六角義賢と対立していた北近江の戦国大名・浅井久政と戦を繰り広げます。
勢力拡大を行う斎藤義龍でしたが、尾張国の織田信長による侵攻がより一層激しさを増し、勢力拡大を果たすことはできませんでした。
斎藤義龍の最期と死因
永禄4年(1561年)京都の司法、行政、警察を行う左京大夫に就任しましたが、その年の5月11日、35歳で亡くなりました。
死因は分かっていませんが、ハンセン病で亡くなったと考えられています。
しかし斎藤義龍がハンセン病であった記録はなく、奇病であったと太田牛一が記した『大かうさまぐんきのうち』には記されています。
他にも暗殺され亡くなったといった説があります。
斎藤義龍の家紋
斎藤義龍の家紋は「二頭立波」です。
父・斎藤道三がデザインしたものとされています。
まとめ
「美濃のマムシ」と恐れられた斎藤道三の息子である斎藤義龍の生い立ちや死因、ハンセン病について解説しました。
長良川の戦いで勝利したものの、父親殺しのレッテルを貼られた斎藤義龍は長良川の戦い後、自らを「范可(はんか)」と名乗っていたとされています。
「范可」とは止むを得ず、父親を殺してしまった中国・唐の人物です。
斎藤義龍は范可と呼ばれる人物と自分の境遇を重ね合わせ「范可」と名乗ったのでした。
そんな斎藤義龍は現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」に登場しています。