土岐頼芸とは?斎藤道三との関係性や鷹、墓について解説!

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土岐頼芸とは戦国時代、美濃国の守護大名となった人物です。

兄・土岐頼武との対立を経て美濃国の守護大名となった土岐頼武でしたが、重臣の斎藤道三と対立し、美濃国から追放されるのでした。

土岐頼芸を追放した斎藤道三の息子・斎藤義龍は土岐頼芸の息子ではないかといった説が存在します。

今回は土岐頼芸の生い立ちや斎藤道三との関係性、鷹や墓の場所について解説していきます。

土岐頼芸の生い立ち

混乱する美濃

文亀2年(1502年)、美濃の守護であった土岐政房の次男として土岐頼芸は誕生しました。

土岐頼芸が誕生する前、美濃国の守護であった土岐氏は室町時代に入ると権力を失い、代わりに守護代の斎藤氏が権力を握るようになっていました。

守護の後継者を決めるまでの権力を持つようになった斎藤氏は、守護の後継者として康正2年(1456年)土岐氏の土岐成瀬を守護に就任させます。

守護となった土岐家ですが、明応4年(1495年)にお家騒動(舟田の乱)を起こし、勢力を落としていくのでした。

また明応5年(1497年)には重臣である斎藤氏の斎藤利国が戦死します。

お家騒動、斎藤利国の死のどさくさに紛れて斎藤氏の庶流であった長井家が台頭するなど、美濃の国内情勢は不安定なものでした。

 

兄・土岐頼武との対立

そんな情勢の中で産まれた土岐頼芸には兄であり土岐政房の長男である土岐頼武がいました。

本来であれば長男である土岐頼武が父の後を継ぐのですが、父・土岐政房は長男・土岐頼武よりも次男である土岐頼芸を溺愛し、後継者にしようと考えていたのです。

このようなことから土岐頼芸は小守護代・長井長弘、そして斎藤道三の父である長井新左衛門尉を味方につけ兄・土岐頼武と対立するようになったのでした。

一方で、兄の土岐頼武は守護代・斎藤利良を味方につけます。

そしてついに永正14年(1517年)、兄弟間で家督争いが行われたのでした。

永正14年(1517年)に行われた家督争いで土岐頼芸は敗れたものの、翌年の永正15年(1518年)には再び争いが勃発し、土岐頼武の勢力を一掃させることに成功します。

しかし、永正16年(1519年)、再び戦いが勃発すると、土岐頼芸は敗れ、後継者の座は兄・土岐頼武に奪われる結果となりました。

 

兄・土岐頼武を美濃から追放し、守護となる

後継者の座を奪われた土岐頼芸でしたが、政権の奪還を計画し大永5年(1525年)再び挙兵、享禄3年(1530年)には兄・土岐頼武を越前国に追放します。

兄を追放した土岐頼芸は周囲から「濃州太守」と呼ばれるようになり、実質的な美濃国の守護となったのでした。

 

兄・土岐頼武と和睦

天文4年(1535年)6月、永正16年(1519年)に亡くなった父・土岐政房の十七回忌が行われました。

ここで土岐頼芸は土岐家の後継者であることを国内に宣言したため、ますます兄との対立は深くなります。

この頃、美濃国から追放された兄・土岐頼武の甥である土岐頼純が美濃国に復帰していました。

土岐頼純は対立していた兄・土岐頼武の後継者となっていたため、美濃国内の各地で小規模な戦が始まります。

しかし、以前から対立していた六角定頼と和睦した土岐頼芸は、国内の争乱を収束化することに成功し、天文8年(1539年)には土岐頼純との和睦に成功したのでした。

斎藤道三と対立

天文10年(1541年)、重臣である斎藤道三が土岐氏の弱体化、美濃国の支配を目的に、土岐頼芸の弟である土岐頼満を毒殺します。

これがきっかけとなり、土岐頼純は斎藤道三と対立することとなったのでした。

 

斎藤道三によって追放される

天文11年(1542年)、斎藤道三が土岐頼芸の居城である大桑城に攻撃を仕掛けます。

この戦いで大桑城は落城となり、土岐頼芸は次男・頼次とともに尾張へと追放されたのでした。

 

再び守護となるも

土岐頼芸は尾張国の織田信秀(織田信長の父)から支持を得て、越前国の朝倉孝景のもとにいた土岐頼純と協力し再び守護となることができました。

天文15年(1546年)、斎藤道三は対立していた朝倉孝景と和睦します。

この際、和睦の条件として、土岐頼芸の守護退任であったため、土岐頼芸は守護をやむなく退任することとなりました。

土岐頼芸が守護を退任すると、土岐頼純が守護の座に付きました。

 

またもや追放される

天文17年(1548年)、後ろ盾となっていた織田信秀が対立していた斎藤道三と和睦します。

後ろ盾を失った土岐頼芸は天文21年(1552年)頃、再び斎藤道三から追放されることとなり、近江国の六角氏のもとで保護されることとなったのでした。

その後は、弟・土岐治頼がいる常陸国や土岐為頼がいる上総国に拠点を移します。

各地を転々としていた土岐頼芸でしたが、旧家臣である稲葉一鉄の協力のもと美濃国へと帰国することができました。

 

土岐頼芸の最期

美濃国に戻った半年後の天正10年(1582年)、土岐頼芸は81歳で亡くなりました。

 

斎藤義龍の父親説

対立した斎藤道三の長男・斎藤義龍の父親は土岐頼芸ではないかといった説が存在します。

斎藤義龍の生母は深芳野と呼ばれる女性なのですが、もともとは土岐頼芸の愛妾でした。

ですが、享禄元年(1528年)深芳野は斎藤道三の側室として下賜されます。

側室として下賜されたその翌年の享禄2年(1529年)に斎藤義龍が誕生しました。

斎藤義龍の出生時期や、後に斎藤義龍が父親である斎藤道三と対立することから、斎藤義龍の父親は土岐頼芸なのではないかと考えられるようになりました。

 

文化人として

土岐頼芸は文化人としても有名で、たくさんの書画作品が残されています。

特に鷹の絵を描く事が得意であったとされ、土岐頼芸の描く鷹の絵は「土岐の鷹」と呼ばれました。

 

土岐頼芸の墓は岐阜県揖斐川町の法雲寺にあります。

 

まとめ

土岐頼芸は戦国時代、美濃国の守護大名となった人物でした。

しかし、重臣であった斎藤道三と対立し、美濃国から追放され守護の座を失います。

今、放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場しており、非常に重要な人物となっています。