征夷大将軍とは?太政大臣との違いや初代・征夷大将軍、歴代の征夷大将軍となった人物について解説!

征夷大将軍とは、飛鳥時代・奈良時代に蝦夷征討を指揮していた臨時の官職です。

奈良時代末期に大伴弟麻呂が征夷大将軍に初めて任命され、その後、阿弖流為討伐のために坂上田村麻呂が任命されました。

坂上田村麻呂の次に就いたのは文室綿麻呂でしたが、その後、征夷大将軍は一時途絶えることとなります。

その後、平安中期に藤原忠文が征夷大将軍に任命されましたが、この時期の征夷大将軍は蝦夷征討を目的としたのではなくなっていました。

そんな征夷大将軍と太政大臣との違いや初代征夷大将軍となった大伴弟麻呂、歴代の征夷大将軍について解説していきます。

征夷大将軍の始まり

征夷大将軍とは朝廷と対立関係であった蝦夷(東北地方にいた人々)の討伐の指揮をする官職のことを指します。

はじめから征夷大将軍と呼ばれる官職名が付けられていた訳ではなく、飛鳥時代末にあたる和銅2年(709)日本で初めて巨勢麻呂が蝦夷地討伐の指揮官となった際、征夷大将軍は「陸奥鎮東将軍」と呼ばれていました。

その後、養老4年(720年)9月29日に「持節征夷将軍」として多治比縣守が任命され、延暦7年(788年)12月7日には「征東大将軍」として紀古佐美が任命されます。

「陸奥鎮東将軍」、「持節征夷将軍」、「征東大将軍」など呼び方は時期によって様々でしたが、どれも蝦夷討伐を目的とした官職でした。

これまで蝦夷討伐の指揮官となる官職は様々な呼ばれ方がされてきましたが、「征夷大将軍」と呼ばれるようになったのは奈良時代末期のことです。

 

「征夷大将軍」の初見と初代征夷大将軍

延暦10年(790年)7月13日、大伴弟麻呂が「征東大使」に任命されます。

延暦12年(792年)2月17日になると「征東使」は「征夷使」と改められ、また「大使」はまた「将軍」と呼ばれるようになりました。

平安時代に編纂された歴史書である『日本紀略』には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うた。と記されており、この記述が「征夷大将軍」の初見とされています。

このことから初めて「征夷大将軍」となったのは大伴弟麻呂ということとなります。

坂上田村麻呂

大伴弟麻呂が征夷大将軍に任命された際、坂上田村麻呂は副使として任命されました。

しかし延暦16年(797年)11月5日になると坂上田村麻呂は征夷大将軍に昇格となり、2代目征夷大将軍となります。

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文室綿麻呂

その後も、文室綿麻呂が弘仁2年(811年)4月17日、弘仁5年(814年)11月17日と2度にわたり征夷大将軍となるも、一時征夷大将軍は途絶えることとなります。

 

藤原忠文

文室綿麻呂の代で征夷大将軍は一時途絶えたものの、平安時代中期の天慶3年(940年)、藤原忠文が征夷大将軍に任命されます。

もともと征夷大将軍とは蝦夷討伐を目的として設立された官職でしたが、この頃にはすでに蝦夷討伐を目的にはされておらず、藤原忠文が征夷大将軍に任命されたのは、当時関東で反乱を起した平将門を追討するためでした。

当時68歳と高齢ながら征夷大将軍に任命された藤原忠文でしたが、関東に到着する前に、平将門は討たれていました。

しかし、翌年の天慶4年(941年)には藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こしたため、藤原純友の討伐を目的とし征夷大将軍に再び任命されます。

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源義仲

藤原忠文の後、征夷大将軍となったのは源義仲です。

朝廷と源頼朝との対立関係の末、平安時代末期にあたる寿永3年(1184年)1月15日に自ら征夷大将軍と名乗りました。

鎌倉時代、征夷大将軍となった人物

この頃になると、もはや蝦夷討伐のための官職でなくなっていました。

一度、征夷大将軍の官職は文室綿麻呂の頃に途絶えることとなりますが、討伐対象を変え、征夷大将軍の官職は復活し、以降、明治新政府が王政復古の大号令を発するまで征夷大将軍職は続くこととなります。

 

鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝

鎌倉時代において初代征夷大将軍となったのは源頼朝です。

源義仲や平氏、また自身の弟である源義仲を追放したのち奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし全国を平定しました。

建久3年(1192年)に征夷大将軍に任命されると、朝廷から独立した鎌倉幕府を開きます。

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鎌倉幕府第2代征夷大将軍・源頼家

源頼家は源頼朝の嫡男で、源頼朝が亡くなると18歳で後を継ぎ、建久10年(1199年)1月13日に鎌倉幕府第2代征夷大将軍に任命されました。

しかし、独裁的政治を進めたため将軍職を剥奪、追放された後、暗殺されました。

 

鎌倉幕府第3代征夷大将軍・源実朝

源頼朝の嫡出の次男で、源頼家は兄にあたります。

兄・源頼家は征夷大将軍であった頃、従来の習慣を無視した独裁的政治を進めたため将軍職を剥奪され、追放されました。

そのため、当時12歳であった源実朝が鎌倉幕府第3代征夷大将軍に任命となりました。

しかし、兄・源頼家と同様に暗殺され28歳で亡くなりました。

 

鎌倉幕府第4代征夷大将軍・藤原頼経

源実朝が暗殺され、その後の嘉禄2年(1226年)、鎌倉幕府第4代征夷大将軍に任命されました。

 

鎌倉幕府第5代征夷大将軍・藤原頼嗣

鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の息子で、寛元2年(1244年)にわずか6歳で元服を行い鎌倉幕府第5代征夷大将軍となりました。

しかし、康元元年(1256年)に赤斑瘡によって18歳で亡くなります。

 

鎌倉幕府第6代征夷大将軍・宗尊親王

後嵯峨天皇の第一皇子で、建長4年(1252年)4月に11歳で鎌倉に入り、鎌倉幕府第6代征夷大将軍に任命されました。

皇族で初めての征夷大将軍となります。

 

鎌倉幕府第7代征夷大将軍・惟康親王

宗尊親王の嫡男で、文永3年(1266年)7月、父であり第6代征夷大将軍・宗尊親王が廃され京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に任命されました。

 

鎌倉幕府第8代征夷大将軍・久明親王

後深草天皇の第6皇子であり、正応2年(1289年)9月、第7代征夷大将軍・惟康親王が京都に送還されたことに伴い、鎌倉幕府8代征夷大将軍となりました。

しかし、延慶元年(1308年)8月になると北条氏によって将軍職を解任されることとなり、自身の子供である守邦親王が後を継ぐこととなります。

 

鎌倉幕府第9代征夷大将軍・守邦親王

8代将軍久明親王の子で、延慶元年(1308)8月に父・久明親王が将軍職を解任したため、わずか8歳で征夷大将軍に就任となりました。

しかし、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡したため、鎌倉幕府における最後の征夷大将軍となります。

 

護良親王

後醍醐天皇と源師親の娘・親子の皇子であり、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(1333)6月13日に征夷大将軍に任命されました。

しかし、同年9月には足利尊氏の暗殺を父・後醍醐天皇や、その寵姫・阿野廉子とともに企てていたとされ征夷大将軍を解任されることとなります。

 

成良親王

後醍醐天皇の阿野廉子の皇子で、建武2年(1335)8月1日に征夷大将軍に任命されました。

 

室町時代、征夷大将軍となった人物

室町幕府初代征夷大将軍・足利尊氏

足利尊氏は北朝を奉じて暦応元年(1338)8月11日に征夷大将軍に命じられると京都に室町幕府を開きました。

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室町幕府第2代征夷大将軍・足利義詮

足利尊氏と赤橋登子の嫡男で、父・足利尊氏が正平13年(1358)4月に亡くなったのに伴い12月に室町幕府第2代将軍に任命されました。

 

室町幕府第3代征夷大将軍・足利義満

足利義詮の子で、重病となっていた父・足利義詮が正平22年(1367)12月7日に亡くなったため、後を継ぎ室町幕府第3代将軍となりました。

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室町幕府第4代征夷大将軍・足利義持

足利義満の子で応永元年(1394)12月17日に父・足利義満から将軍職を譲られると、9歳で室町幕府第4代征夷大将軍に就任となります。

 

室町幕府第5代征夷大将軍・足利義量

第4代将軍・足利義持で嫡男であり、応永30年(1423)3月18日に父・足利義持から将軍職を譲られ、17歳で室町幕府第5代征夷大将軍となりました。

 

室町幕府第6代征夷大将軍・足利義教

第3代将軍・足利義満の五男であり、第4代征夷大将軍・足利義持、第5代征夷大将軍・足利義量の弟でもあります。

兄の第5代征夷大将軍・足利義量が亡くなると足利義持が政務を続けましたが、後継を定めずに亡くなってしまいました。

そのため、次期将軍はくじ引きによって決められることとなり、くじを引いた足利義教が室町幕府第6代征夷大将軍となりました。

このようなことから「籤引き将軍」と呼ばれています。

 

室町幕府第7代征夷大将軍・足利義勝

足利義教の息子で、父・足利義教が赤松邸で暗殺されたため、これに伴い嘉吉2年(1442)11月に9歳で室町幕府第7代征夷大将軍となりました。

しかし、翌年の嘉吉3年(1443)、10歳という若さで亡くなります。

 

室町幕府第8代征夷大将軍・足利義政

6代将軍足利義教の息子で、第7代征夷大将軍・足利義勝の弟です。

兄の室町幕府第7代征夷大将軍・足利義勝が若くして亡くなったため文安6年(1449)4月29日、足利義政は8歳で室町幕府第8代征夷大将軍となりました。

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室町幕府第9代征夷大将軍・足利義尚

8代将軍・足利義政の次男です。

将軍後継問題の末、文明5年(1473)12月19日に父・足利義政から将軍職を譲られ室町幕府第9代征夷大将軍となりました。

 

室町幕府第10代征夷大将軍・足利義材(のちに義稙に改名)

8代将軍・足利義政の弟で延徳2年(1490)7月5日に室町幕府第10代征夷大将軍となりました。

後に永正5年(1580)7月1日に再び将軍職に就任します。

 

室町幕府第11代征夷大将軍・足利義澄

堀越公方足利政知の子であり、明応2年(1493)に従兄の10代将軍・足利義材(義稙)が追放されたことに伴い、室町幕府第11代征夷大将軍となりました。

 

足利義稙

足利義材は永正5年(1580)7月1日、再び将軍職に就きます。

この際、名前を「義稙」と改名しました。

 

室町幕府第12代征夷大将軍・足利義晴

第11代将軍足利義澄の長男で 大永元年(1522)12月25日に室町幕府第12代征夷大将軍に就任しました。

 

室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝

足利義晴の息子で、天文15年(1546)12月、父・足利義晴から将軍職を譲られ11歳にして室町幕府第13代征夷大将軍となりました。

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室町幕府第14代征夷大将軍・足利義栄

足利義冬の長男です。

永禄8年(1565)5月19日におきた永禄の変において従兄弟にあたる第13代将軍・足利義輝が三好氏に殺害されました。

その後、永禄11年(1568)2月8日、三好氏に擁立され足利義栄は室町幕府第14代征夷大将軍となりました。

 

室町幕府第15代征夷大将軍・足利義昭

室町幕府第12代征夷大将軍・足利義晴の息子で、13代征夷大将軍・足利義輝の弟です。

仏門に入り覚慶と名乗っていましたが、兄・足利義輝らが暗殺されると還俗し義秋と名乗り、織田信長に擁されて室町幕府第15代征夷大将軍となりました。

室町幕府最後の征夷大将軍とされています。

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江戸幕府、征夷大将軍となった人物

江戸幕府初代征夷大将軍・徳川家康

信長亡き後、豊臣秀吉の家臣となりました。

しかし、豊臣秀吉亡き後、同じく秀吉の家臣であった石田三成らを破ると慶長8年(1603)に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。

しかし、その2年後には自身の息子・徳川秀忠に将軍職を譲りました。

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江戸幕府第2代征夷大将軍・徳川秀忠

徳川家康の三男です。

慶長10年(1605)に父・徳川家康から将軍職が譲られ江戸幕府第2代征夷大将軍となりました。

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江戸幕府第3代征夷大将軍・徳川家光

2代征夷大将軍・徳川秀忠の次男です。

祖父・徳川家康の意向で元和9年(1623)7月27日、江戸幕府第3代征夷大将軍となりました。

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江戸幕府第4代征夷大将軍・徳川家綱

第3代将軍徳川家光の長男で、慶安4年(1651)4月20日に父・徳川家光が亡くなったのに伴い、江戸幕府第4代征夷大将軍に就任となりました。

 

江戸幕府第5代征夷大将軍・徳川綱吉

徳川家光の四男です。

第4代征夷大将軍・徳川家綱には世継ぎとなる子供がおらず、そのため徳川綱吉が延宝8年(1680)5月、江戸幕府第5代征夷大将軍となりました。

就任後、「生類憐みの令」などを発布しています。

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江戸幕府第6代征夷大将軍・徳川家宣

徳川綱重の長男であり、第3代将軍・徳川家光の孫にあたる人物です。

叔父である徳川綱吉の養子となり宝永6年(1709)に江戸幕府第6代征夷大将軍に就任しました。

 

江戸幕府第7代征夷大将軍・徳川家継

第6代将軍・徳川家宣の四男で正徳3年(1713)3月4日に江戸幕府第7代征夷大将軍に就任しました。

 

江戸幕府第8代征夷大将軍・徳川吉宗

紀州藩主・徳川光貞の四男です。

享保元年(1716)7月18日に江戸幕府第8代征夷大将軍に就任しました。

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江戸幕府第9代征夷大将軍・徳川家重

8代征夷大将軍・徳川吉宗の長男で、延享2年(1745)父・徳川吉宗が隠居したため、江戸幕府第9代征夷大将軍となりました。

脳性麻痺による言語障害を持っていたとされています。

 

江戸幕府第10代征夷大将軍・徳川家治

第9代将軍・徳川家重の長男です。

宝暦10年(1760)5月3日に父・徳川家重が隠居となったため、江戸幕府第10代征夷大将軍に就任となりました。

 

江戸幕府第11代征夷大将軍・徳川家斉

御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男で、安永8年(1779)に第10代将軍・徳川家治の長男・徳川家基が急死し、徳川家治には他の世継ぎとなる子供がいなかったため、徳川家斉は徳川家治の養子となり、江戸幕府第11代征夷大将軍となりました。

 

江戸幕府第12代征夷大将軍・徳川家慶

第11代将軍・徳川家斉の次男です。

兄に竹千代がいましたが、早世していたため、父・徳川家慶の後継ぎとなり天保8年(1837)に45歳で将軍職に就任となりました。

 

江戸幕府第13代征夷大将軍・徳川家定

第12代将軍・徳川家慶の四男です。

父・徳川家慶は14男13女の子供を持ちましたが、成人まで生き残ったのは徳川家定だけでした。

そのため徳川家定は父・徳川家定の後継者となり嘉永6年(1853)10月23日、江戸幕府第13代征夷大将軍となりました。

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江戸幕府第14代征夷大将軍・徳川家茂

徳川斉順の嫡男で嘉永6年(1853)10月23日、江戸幕府第14代征夷大将軍となりました。

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江戸幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜

水戸藩主・徳川斉昭の子で徳川宗家を相続し、慶応2年(1867)12月5日に江戸幕府第15代征夷大将軍に就任となりました。

慶応3年(1867)10月14日に大政奉還を行うと、慶応4年(1868)3月から4月にかけ明治新政府軍に江戸開城を行いました。

江戸幕府最後の将軍でもあり、日本史上最後の征夷大将軍とされています。

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太政大臣との違い

征夷大将軍

征夷大将軍はもともと、蝦夷討伐を目的とした官職でしたが、時代と共に討伐対象は変化してきました。

討伐を目的とした軍隊の指揮官であり、天皇の代理として軍事行為を行っていたため、軍事活動において最も高い権限を持つことのできる官職であったとされています。

源頼朝の就任以降、征夷大将軍は武家のトップの地位としてみなされるようになりました。

 

太政大臣

一方、太政大臣とは日本の律令官制における朝廷の最高職で、857年に藤原良房が任命された際、摂生と同じような権力を持ち、天皇を訓導する官僚として位置づけられてきました。

しかし、藤原氏による摂政・関白の地位独占が行われるようになると、太政大臣の実権は摂関に渡り、もはや太政大臣という官職は名誉職へと変化します。

大友皇子が就任した飛鳥・奈良時代から始まり三条実美が就任した明治まで、太政大臣は継がれ、その間96人の人物が太政大臣となりました。