鎌倉幕府とは?滅亡の理由や将軍、場所、年号や成立について解説!

激闘の中に生まれる歴史という名の物語。

今回は武家政権の始まりでもある「鎌倉幕府」をテーマに、将軍はどのような人物だったのか、またどうやって政権を成立し、どんな場所で何を行っていたのか。年代や年号、そして滅亡までの流れを簡単に綴っていきたいと思います。

鎌倉幕府とは具体的などんなもの?

鎌倉幕府とは源頼朝らが設立した武家政権のことであり、初期は東国から始まり後に全国へと拡大していきました。

武家政権とは、武家の統率者を長とし、地方を治める政権のことを言います。(支配する、とも言いますがここでは治めると表記していきます。)

実は武家政権のことを幕府と称すようになったのは、意外にも江戸時代末期からでした。

それまでは、将軍の陣所や御所(居館)のことを幕府と称しており、当初は治めていた場所が東国だったのもあり、朝廷や武士からは「関東」「鎌倉殿」、一般からは「武家」と呼ばれていました。

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「御恩」と「奉公」

この鎌倉幕府は、主従関係を結び、後家人(ごけにん)となった武士に役職を授け、手柄をたてた者達に対し領地を与えていきました。これを「御恩」と言います。

御恩を受けた後家人達は、その場所に屋敷を持ち、武芸や乗馬等の鍛練をし、命令がかかれば戦に駆けつけ、将軍の力となりました。

これを「奉公」と言います。

この「御恩」と「奉公」により武士の力と地を治めていったのです。

 

幕府が成立した年号は1185年?

平清盛との戦に敗れた若き源頼朝は伊豆へ流刑となり、罪人としてこの場所で20年以上過ごすこととなります。

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この時、頼朝を監視下に置いたのが豪族・北条時政で、後の妻・北条政子の父親です。

時を経て、頼朝は後白河上皇(ごしろかわじょうこう)の第3皇子「以仁王(もちひとおう)」の令旨(皇族の出す命令)を受け伊豆にて挙兵します。

北条氏の援助のもと、集まってくれた武士達を労って信頼を築き、兄の為にと駆けつけてくれた源義経らと共に協力し、1180年に平氏(へいし)を滅すことができました。

その後、鎌倉にて武家政権を行う為に体制を整え、1185年に朝廷から地方を治める役人「守護」と税を集める役人「地頭」を全国に置く許可をいただいたことで鎌倉幕府の始まりとなりました。

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どこで政務を行っていたのか?

当時の「幕府」とは将軍の御所を指します。頼朝が鎌倉にて構えた御所は大倉幕府(又は大倉御所)です。

頼朝が死去した後も、息子の頼家(よりいえ)、実朝(さねとも)はこの場所で政務を行っていました。

実頼が暗殺され、頼朝の遠縁に当たる藤原頼経(ふじわらのよりつね)が第4代将軍となった際に、新しく宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府を御所としました。

その後も新たに若宮大路(わかみやおおじ)幕府を御所に移しましたが、ここが鎌倉幕府滅亡までの最後の御所となりました。

 

歴代将軍

ここで、歴代の征夷大将軍となった人物をご紹介いたします。

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初代征夷大将軍・源頼朝

初代征夷大将軍は言わずと知れた源頼朝です。源義朝の三男で、美男子だったと言われています。

流刑先の伊豆で北条時政の娘・北条政子と出会うも、当然、時政に猛反対されました。

それでも二人の想いは変わらず時政の反対を押しきるように駆け落ちをし、この行いによって、時政も仕方なく二人の結婚を許したそうです。

挙兵の際には武士一人一人に声をかける等、思いやりに溢れているかと思いきや、約束を破り朝廷から勝手に官位を貰った異母弟の源義経を追放し、その後奥州の藤原氏と共に滅ぼしたといいます。

53歳(満51歳)で生涯を終えました。

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第2代征夷大将軍・源頼家

第2代征夷大将軍の源頼家は18歳で家督を継ぎましたが、その3年後、重病を患ったことにより将軍職を剥奪された後に伊豆・修禅寺に幽閉されます。

そこで死去しますが、暗殺されたとも言われています。

23歳(満21歳)で生涯を終えました。

 

第3代征夷大将軍・源実朝

第3代征夷大将軍は頼家の弟である源実朝です。

この時、実朝は12歳。血気盛んな性格とは言えず、蹴鞠や和歌を好んだと言われます。

周りから批判を受けながらも、昇進を望み右大臣となります。

しかし、その後昇進を祝った日に公暁によって暗殺されてしまいます。

28歳(満27歳)で生涯を終えました。

 

鎌倉幕府が滅亡した理由

頼朝が生涯をかけて確立した鎌倉幕府ですが、将軍家は三代で途絶えてしまい、その後は執権の北条氏が中心となり存続させていきます。

その存在を疎ましく感じていた後鳥羽上皇は政治の実権を取り戻すことを決め幕府に攻めいりますが、なんと幕府軍に大敗。

戦いに敗れた朝廷側の武士や貴族、後鳥羽上皇本人もが隠岐島へと流されるという、前代未聞の大事件となりました。

これが「承久の乱」です。

この大事件により、幕府と朝廷の立場が逆転し人々にも衝撃を与えました。

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逆転からの逆転

幕府はその後、朝廷を監視する為の機関として六波羅探題(ろくはらたんだい)を京に置きました。

これに後醍醐天皇は今度こそ鎌倉幕府を倒す為にと計画を立てますが、幕府に知られてしまい後鳥羽上皇と同じく隠岐島に流されてしまいます。

ですが隙を見て島を脱出した後醍醐天皇は再度反乱の兵をあげ、妻子を人質にとられていた足利尊氏(あしかがたかうじ)を味方にし、六波羅探題を攻め落とします。

直後には同じく鎌倉幕府に反抗していた新田義貞(にったよしさだ)か鎌倉に攻めこみ、1333年、鎌倉幕府を滅ぼしました。

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滅亡への要因

大まかな流れの中で承久の乱が起こるまでは、朝廷側の支配権を侵害しないのが原則でした。

それは後に作られた法令にも、原則として強調されていました。

元(モンゴル民族により作られたアジア国)からの侵略に二度も買ち、政治もより安定になっていく鎌倉幕府がそれでも滅ぼされたのは、拡大していくにあたって起きる内部組織の腐敗と言えるかもしれません。

力で支配しようとする幕府は、人々からしたらもはや悪党にしか見えなくなります。

朝廷と幕府の対立も続いており、幕府に反感を持つ武士も多くいたことから、滅亡への道は避けられなかったのではないかと思います。

鎌倉幕府の滅亡後

幕府を滅ぼした後醍醐天皇は新しく「建武の新政(けんむのしんせい)」を始めました。

ですが公家(朝廷側)にだけ手厚くする政治に武士は不満を覚えます。

その最中、足利尊氏は己の財産から武士に恩賞を与えており、その行いに、武士の忠誠は尊氏に向いていきます。

危機感を覚えた後醍醐天皇は尊氏を討たんと新田義貞らを差し向けましたが、勢いにのった足利軍に撃退されてしまいます。

一度生まれた確執は埋まらず、後醍醐天皇は吉野(奈良県)へ、足利尊氏は京にて新たな天皇を立て征夷大将軍となり室町幕府を開きました。

それと同時に北朝(京)と南朝(吉野)にそれぞれ天皇が存在する「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」を迎えることとなります。

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簡単な時系列

鎌倉幕府の出来事を時系列でまとめました。

1180年 源頼朝が伊豆にて挙兵。同年に鎌倉に入る。

1185年 平家を滅ぼし、朝廷から守護と地頭の設置を認められる。 

1190年 源頼朝、右近衛大将に任命される。

1192年 源頼朝、征夷大将軍に任命される。

1199年 源頼朝、死去。息子の源頼家が第2第征夷大将軍となる。

1203年 源頼家、病により伊豆・修禅寺に幽閉。弟の源実朝が第3代征夷大将軍に任命される

1204年 源頼家、死去(暗殺された説も有り)

1219年 源実朝、長く続いた武力抗争の末、甥の公暁(くぎょう)により暗殺される。

1225年 三寅、元服。名を藤原頼経(よりつね)とした。

1226年 藤原頼経、第4代征夷大将軍に任命される。

1224年 藤原頼経は執権の北条経時と関係が悪化。息子・藤原頼嗣が第5代征夷大将軍に任命される

1252年 謀反事件に頼経が関与していたとして藤原頼嗣は廃されてしまう。新将軍として宗尊新王が任命される。

1256年 藤原頼経、病により死去。同年に藤原頼嗣も、病により死去。

1333年 鎌倉幕府、北条氏一門は滅亡。 

 

さいごに

ここに記載した事柄以外にもたくさんの出来事があり、そのどれもが鎌倉幕府滅亡の結果に繋がるきっかけとなっていったのでしょう。

どの時代にも良い政治と悪い政治は存在し、この歴史は繰り返されていきます。

ちなみに、鎌倉幕府の滅亡までの151年間の間に何度年号が変わったのか調べたところ、55回も変わっていました。

朝廷の歴史も、激動なものだったのが伺えますね。