後鳥羽上皇とは?承久の乱や隠岐、怨霊伝説や百人一首について解説!

※当サイトは広告を含む場合がございます

後鳥羽上皇とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて第82代天皇となった人物です。

鎌倉幕府執権の北条義時に対し、倒幕を企て承久の乱を起こすも、幕府軍に敗れ隠岐へと配流されました。

配流後、幕府の有力御家人が亡くなると、後鳥羽上皇の怨霊が原因とされます。

そんな後鳥羽上皇の生涯や承久の乱、怨霊伝説や百人一首について解説していきます。

後鳥羽上皇の生い立ち

後鳥羽天皇は治承4年(1180)8月6日、父・高倉天皇(第80代天皇)と母・坊門殖子の第4皇子として誕生しました。

父・高倉天皇(第80代天皇)は後白河天皇の第7皇子であったため、後白河天皇は後鳥羽天皇の祖父にあたります。

諱は尊成であったとされています。

 

源氏と平家の争い

尊成(後の後鳥羽天皇)が誕生した治承4年(1180)頃は、朝廷から命じられ平家討伐を行う源氏と平家が合戦を繰り広げていました。

当時、天皇として在位していたのは父・高倉天皇と平清盛の娘・徳子との間に誕生した、まだ幼い安徳天皇です。

安徳天皇は平氏とともに源氏の襲撃から逃れ、寿永2年(1183)7月25日、木曾義仲の軍が京都へと侵攻すると平家は安徳天皇とともに西国へと逃れました。

この際、天皇の即位の際に必要となる三種の神器も平家によって持ち出されたとされています。

 

三種の神器を用いず即位する

京都にいた源氏や朝廷は、平家追討をこのまま続行するか、または平家と交渉し安徳天皇と三種の神器を京都に帰還させるかといった意見に分かれていました。

また安徳天皇が京都から姿を消したため安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上します。

安徳天皇に代わる新帝の候補者として、木曽義仲は以仁王(第77代 後白河天皇の第3皇子)を推薦しましたが、祖父・後白河法皇は安徳天皇の異母弟であり、まだ4歳であった尊成(後の後鳥羽天皇)を即位させることにしました。

こうして尊成は元暦元年(1184)7月28日、三種の神器がそろわないまま第82代天皇となりました。

 

コンプレックスとなる

翌年の元暦2年(1185)になると源平最後の合戦となる壇ノ浦の戦いにおいて、平家は滅亡となり、この際、安徳天皇は入水し三種の神器も海に沈められます。

源氏によって海に沈められた三種の神器は回収されましたが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は探索しても見つからず、壇ノ浦の戦い以降、三種の神器が揃わないまま天皇の元服の儀が行われることとなりました。

三種の神器が揃わないまま即位したのは後鳥羽天皇だけではありませんでしたが、伝統を重んじる宮廷社会において、三種の神器が揃わないまま即位したということは後鳥羽天皇にとってコンプレックスであったとされています。

 

後白河法皇による院政

後鳥羽天皇が即位したのはまだ4歳の時でした。

そのため建久3年(1192)3月まで、祖父・後白河法皇が院政を行います。

しかし、後白河法皇が同年3月13日に亡くなると関白・九条兼実が幼い後鳥羽天皇の代わりに朝廷を指導するようになります。

朝廷を指導するようになり権力を掌握した関白・九条兼実は源頼朝を征夷大将軍とし、また自身の弟・慈円を天台座主に任命し、延暦寺を統制させるなど行い政権基盤の強化を図りました。

しかし、九条兼実と源頼朝との関係は次第に疎遠関係となり、土御門通親の娘に皇子が誕生したことによって九条兼実らは朝廷から追放されることとなります。

 

上皇となるも事実上、天皇として君臨

建久9年(1198)1月11日になると、源在子と自身の第一皇子である土御門天皇(第83代天皇)に譲位します。

これ以降、後鳥羽上皇は土御門天皇、自身の第三皇子・順徳天皇(第84代天皇)、仲恭天皇(第85代天皇)の上皇として天皇の代わりに政務を行いました。

上皇として院政を行っていた後鳥羽上皇は、この頃になると九条兼実は出家、土御門通親が急死、また既に後白河法皇と源頼朝は亡くなっていたため、後鳥羽上皇の邪魔をする者はおらず上皇でありながら、事実上、天皇として君臨していました。

公事の再興や廷臣の統制などを積極に行います。

承久の乱

こうして権力を握っていた後鳥羽上皇は鎌倉幕府を滅亡させ、天皇主権を取り戻そうと考えます。

承久3年(1221)5月14日、鎌倉幕府の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内に兵を集め倒幕のための承久の乱を起こしました。

この承久の乱は日本史史上初となる朝廷と武家政権の間で起きた争いとされています。

 

隠岐へと配流

しかし、朝廷軍は幕府軍に完敗し、後鳥羽上皇は北条義時の嫡男・北条泰時に捕えられ現在の島根県隠岐郡海士町に位置する隠岐島へと配流されました。

後鳥羽上皇のみならず、承久の乱に関わった順徳上皇は佐渡島に配流、また関与していなかった土御門上皇は自ら土佐国に配流されます。

後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇だけではなく、後鳥羽上皇の皇子・雅成親王は但馬国、頼仁親王は備前国へと配流され、当時4歳で即位していた仲恭天皇も廃されました。

仲恭天皇の代わりに即位となったのは父・高倉天皇の第二皇子・守貞親王が第86代天皇となります。

承久の乱で勝利を収めた北条氏は以降、鎌倉幕府において100年以上にわたり執権政治をとる結果となりました。

 

後鳥羽上皇の最期

後鳥羽上皇は隠岐に配流される前に出家し法皇となっていました。

文暦2年(1235)に摂政・九条道家が隠岐に配流された後鳥羽上皇と、佐渡島に配流されていた順徳上皇の還京を提案するも、執権・北条泰時は受け入れなかったと『明月記』に記されています。

その後、後鳥羽法皇は延応元年(1239)2月20日、配流先の隠岐で60歳で崩御しました。

同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られると、仁治3年(1242)6月には九条道家によって「後鳥羽院」と追号が贈られることとなりました。

怨霊伝説

後鳥羽上皇は配流先の隠岐において、嘉禎3年(1237)に「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」と残しました。

その後、配流先で延応元年(1239)2月20日に後鳥羽上皇は崩御したのですが、後鳥羽上皇亡き後、有力御家人・三浦義村が延応元年(1239)12月5日に亡くなり、また延応2年(1240)には北条時房が亡くなります。

この2人の死は後鳥羽上皇の怨霊によるものでる。といった記述が残されていることから、後鳥羽上皇は崩御後まもなく怨霊として認識されていたということとなります。

 

百人一首

後鳥羽上皇は中世屈指の歌人であったとされています

後鳥羽上皇がいつ頃から和歌に興味を持ったのか分かっていませんが、建久9年(1198年)1月、自身の第一皇子である土御門天皇に譲位した頃から、和歌に興味を持ち始めたのではと考えられています。

正治元年(1199)以降からは自ら歌会や歌合などを催しました。

後鳥羽天皇は特に御子左家と呼ばれる藤原定家と藤原俊成の歌風を大変好んでいたとされ正治2年(1200)7月に開かれた歌会において御子左家系の歌人に詠進を求めます。

また藤原俊成に師事するようになると勅撰集の撰進も行い始め、藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮に勅撰を命じ『新古今和歌集』の撰進が始まりました。

藤原俊成に師事していた後鳥羽上皇は「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」と詠み、この和歌は百人一首99番に採られています。

 

まとめ

後鳥羽上皇は三種の神器が揃わないまま即位した天皇であり、承久の乱を起こした人物でした。

倒幕を目的とした承久の乱は、日本で初となる朝廷と武家政権の間で起きた争いでしたが、幕府軍に完敗となり天皇でありばがら、隠岐へと配流されました。

配流先の隠岐において、自身が怨霊となれば災いを起こすであろうといった置文を残し、また実際に有力御家人・三浦義村、北条時房の死は後鳥羽上皇の怨霊によるものと記述が残されていることから、後鳥羽上皇崩御後、すぐ怨霊として認識されていたことが分かります。