壇ノ浦の戦いとは?内容や場所、源義経との関係性ついてわかりやすく解説!

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壇ノ浦の戦いとは平安時代末期、現在の山口県下関市にあたる長門国赤間関壇ノ浦において行われた源平最後の合戦です。

源氏の総攻撃を受け壊滅状態となった平家一門は敗北を悟り次々と海に身を投じました。

またこの中には、まだ幼い安徳天皇もいたとされ、三種の神器とともに海に身を投じたとされています。

この戦いにおいて、栄華を誇った平家は滅亡となりました。

そんな壇ノ浦の戦いの内容や場所、源義経との関係性などをわかりやすく解説していきます。

壇ノ浦の戦いの時代背景

保元の乱、平治の乱が勃発

壇ノ浦の戦いが行われたのは平安時代の末期の元暦2年(1185)3月24日のことです。

平安時代末期、この頃、相次いで朝廷と貴族の間で権力闘争が行われていました。

朝廷と貴族との権力闘争が発展したのが保元元年(1156)7月に起きた後白河天皇と崇徳上皇の争いである保元の乱、平治元年(1160)12月9日に起きた二条親政派と信西との争いである平治の乱です。

このような戦が起きる中、平氏の平清盛は対立関係であった後白河上皇と二条天皇、両者との間で深い関わりを持ち、皇族と血縁を結ぶため摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど行っていました。

 

平家の全盛期

平清盛は朝廷との関係を深めるようになると地位を上昇させていき、それにともなって平家一門の官位も上昇、朝廷内において発言権を持つようになります。

その後も応保2年(1162年)日宋貿易の発展に取り組む、天皇家との関わりをさらに深めるため承安元年(1171年)自身の娘・徳子(建礼門院)を高倉天皇(安徳天皇の父)の中宮にさせるなど行いました。

平清盛や平家一門が活躍したこの時期は平家の全盛期であり、平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」(平家一門でない者は人ではない)と発言しています。

 

治承三年の政変

こうした平清盛の努力もあり、朝廷や後白河法王とは長く良好な関係を保ち続けましたが、朝廷を顧みない平家の姿勢が朝廷や後白河法皇から反感を買うこととなり、対立関係となります。

その後、治承2年(1178年)なると、平清盛は後白河法皇を幽閉し後白河院政は完全に停止となります。

 

安徳天皇の即位

後白河法皇を院政から追放した平清盛は高倉天皇との関係を強化し始め、治承2年(1178年)に誕生した高倉天皇と建礼門院(平清盛の娘)の皇子・言仁親王(後の安徳天皇)が、治承4年(1180年)2月、わずか2歳で高倉天皇から譲位され安徳天皇となりました。

安徳天皇には平家の後ろ盾があり、事実上、政治権力を持ったのは平家でした。

 

平氏討伐計画

後白河天皇の第三皇子・以仁王は、次期天皇になれた人物でした。

しかし、安徳天皇の即位により皇位継承は絶望となったのです。

以仁王は治承4年(1180年)、源頼政の協力を受け安徳天皇の廃位、また新政権の樹立、平氏追討の計画を発します。

この計画は全国の源氏や武士に伝えられ、その後、平家討伐を目的とした合戦が繰り広げられました。

寿永2年(1183年)4月、源義仲が京都にいた平宗盛ら平家一門、安徳天皇などの討伐に向け上洛してきます。

そのため平氏は安徳天皇を連れ西国へと逃れました。

この際、天皇即位に必要な三種の神器も持ち出したとされています。

 

一ノ谷の戦い

安徳天皇が西国へと平氏とともに逃れたため京都では天皇不在となり、そのため安徳天皇に代わる後鳥羽天皇(高倉上皇の第四皇子)が即位となります。

しかし、即位の際、三種の神器は必要不可欠であったため、三種の神器奪還と平氏討伐の命が源氏に与えられました。

この間、西国へと逃れた平氏は福原(現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部)まで進出し、瀬戸内海を制圧していたとされます。

平氏追討と三種の神器奪還の命を受けた源氏の源範頼・源義経は福原に陣を構えていた平氏を攻撃し、その後二手に分かれて平氏を急襲すると、平氏を海上へと追い込み治承8年(1184)2月に敗走させました。

 

屋島の戦い

一ノ谷の戦いで敗れた平氏は安徳天皇と共に讃岐屋島(現在の高松市)に陣を構えました。

しかし、源義経によって襲撃され平氏はまたもや敗走となります。

敗走し瀬戸内海の制海権を失った平氏は、現在の山口県下関市に位置する長門彦島へと逃れ、源氏、平家の最終合戦である壇ノ浦の戦いを迎えることとなりました。

壇ノ浦の戦いの場所と内容

壇ノ浦の戦いは屋島の戦いに続く源平合戦です。

現在の山口県下関市に位置する長門国赤間関壇ノ浦が合戦の舞台となりました。

平氏討伐の命を受けた源義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを830艘の水軍を味方につけます。

一方九州にいる平家の討伐にあたっていた源範頼は葦屋浦の戦いにおいて平家を破りました。

よって彦島にいた平家は源義経軍、源範頼軍といった源氏に完全に包囲される形となりました。

源氏の水軍830艘に対し、平氏軍は水軍500艘であったとされています。

こうして元暦2年(1185)3月24日、攻め込んできた義経軍水軍に対し、平知盛率いる平氏軍が彦島を出撃し壇ノ浦の戦いが始まりました。

 

平氏軍の優勢

関門海峡の海流の流れを熟知していた平氏は海上戦において非常に有利で、海戦に慣れない源義経軍を押す形となります。

平氏軍は源義経の討ち取ろうと攻めかかってきた際、源義経は非戦闘員である漕ぎ手を矢で射るよう命じます。

当時、戦において非戦闘員を射ることは反則行為でした。

しかし、あえて反則行為を行うことで戦況を一変させたとされています。

午前に始まったとされる戦いは、はじめ平氏軍が優勢となっていました。

 

源氏軍の総攻撃

しかし午後になると潮の流れが変わり反転し源氏軍が平氏軍に猛攻撃を仕掛けられます。

総攻撃を受けた平氏軍は壊滅状態となり敗北を悟った平家一門は次々と海に身を投じました。

 

安徳天皇と三種の神器

平家の滅亡を悟った平知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り込むと「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と述べたとされています。

これは、女官たちに源氏の武者に強姦されることになるといったことを示唆したとされ、悟った二位尼は源氏の武士に強姦されるくらいならばと死を選び、幼い安徳天皇を抱き抱え、三種の神器とともに海へと身を投じました。

さらに平氏一門の女たちや平資盛、有盛、行平らも次々と海に身を投げ捨てたとされています。

こうして平家は滅亡となりました。

 

まとめ

源氏と平家の最後の合戦である壇ノ浦の戦いについてわかりやすく解説しました。

この壇ノ浦の戦いにおいて安徳天皇は幼くして亡くなり、三種の神器のうちに1つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は海に沈み、その後も見つからなかったとされています。

戦後、残された平氏たちは罰を与えられることとなり、壇ノ浦の戦いによって25年にわたる平氏政権の幕を閉じることとなりました。