保元の乱とは?内容や平治の乱との違い、語呂合わせについてわかりやすく解説!

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保元の乱とは平安時代末期の保元元年(1156)、天皇の後継者問題、摂関の座を巡った摂関家の内紛によって朝廷内で後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し対立しあった政変です。

崇徳上皇方が源為義らの武力を頼りに後白河天皇方に挑むも、敗北となりました。

この院政の混乱において武士が台頭し出したため、これ以降武士の存在感が増すこととなり、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけとなりました。

そんな保元の乱の内容や語呂合わせ、平治の乱との違いをわかりやすく解説していきます。

保元の乱の覚えやすい語呂合わせ

保元の乱は平安時代末期にあたる保元元年(1156)7月に起こりました。

覚えやすい語呂合わせは「人々殺(1156)しあい、保元の乱」です。

 

保元の乱とは

保元の乱とは崇徳上皇と後白河天皇による天皇家の後継者争いと、関白・藤原頼長と藤原忠道による摂関家の家督争いが混合した複雑な政変です。

保元元年(1156)7月に起こったとされ、崇徳上皇方に藤原忠道と藤原頼長、後白河天皇方に藤原忠道がつきました。

崇徳天皇の即位と譲位

保元の乱がはじまる以前、保安4年(1123)1月28日、当時の天皇であった鳥羽天皇が藤原璋子との間に誕生した息子・崇徳天皇に譲位し、わずか数え年5歳にして崇徳天皇は即位します。

こうして第75代天皇となった崇徳天皇でしたが、この時まだ幼かったため、白河法皇が院政を行っていました。

しかし、その白河法皇が亡くなったため父・鳥羽上皇が院政を行います。

この頃になると、父・鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり保延元年(1135)12月4日に2人の間に暲子内親王、保延5年(1139)5月18日に男子となる皇子・体仁親王(後の近衛天皇)が誕生します。

院政を行っていた父・鳥羽上皇は皇子が誕生したため、自身の息子・体仁親王(後の近衛天皇)を崇徳天皇の皇子とさせ、崇徳天皇に退位を迫り、永治元年(1141)12月7日、体仁親王を即位させました。

 

実権の無い上皇

近衛天皇は崇徳上皇の中宮・藤原聖子の養子であり崇徳上皇の「皇太子」であったにも関わらず、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていました。

「皇太弟」と記されていたため、天皇の弟では将来、院政を行うことができず崇徳上皇は上皇になってもなお実権を握ることはできませんでした。

 

摂関家の内紛

崇徳天皇が誕生する以前、治暦4年(1068)から延久4年(1073)まで在位した第71代天皇・後三条天皇は摂関家を外戚とせず、天皇や上皇のみによる政治を行いました。

これによって摂関家は力を弱めることとなり、白河法皇が院政を行っていた際も不遇であったとされています。

しかし藤原家出身の藤原忠実の娘・泰子(高陽院)が鳥羽法皇の妃となったことで摂関家は息を吹き返すこととなります。

当時、関白は藤原忠通でしたが、後継者に恵まれず異母弟・藤原頼長を養子として迎えていました。

よって藤原頼長が後継者となる予定でしたが、康治2年(1143)、藤原忠通に息子・基実が誕生したため、藤原忠通は自身の息子・基実を後継者とました。

これに対し後継者に指名されていた養子の藤原頼長は怒り、藤原頼長と藤原忠通は対立するようになります。

 

近衛天皇の即位と藤原頼長・藤原忠長の対立

崇徳天皇は退位を迫られ、永治元年(1141)12月7日、近衛天皇が即位し、久安6年(1150)正月4日になると近衛天皇は元服を迎えます。

藤原頼長は天皇家との関わりを強くするため自身の養女・多子を妃とし入内させ、19日に女御となりました。

しかし、藤原忠通も自身の養女・呈子を入内させます。

これによりますます藤原頼長と藤原忠道は対立を激化させることとなりました。

これに対し、鳥羽法皇は解決策として多子を皇后、呈子を中宮とすることを両者に提案しましたが、失敗に終わります。

こうしてついに久安六年(1150)9月、藤原頼長に味方していた2人の父・藤原忠実が藤原忠道の屋敷にある藤氏長者家伝の宝物である朱器台盤を取り上げ、藤原忠道を勘当する事態に発展します。

このような事態に鳥羽法皇は藤原忠通を関白に留任、藤原頼長は内覧と下し対処しました。

しかし関白は主に天皇の相談役であり、内覧とは天皇に提出される書類に目を通す職で、どちらも仕事内容が被るためこれまで、関白と内覧は同時に設置されることはこれまでありませんでした。

そのため関白と内覧が同時に設置されたことは前代未聞であったとされています。

近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位

仁平3年(1153)に近衛天皇が重病に陥ります。

近衛天皇はこの時、子供はおらず天皇の後継者問題が発生しました。

候補としてあげられていたのは崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と崇徳上皇の弟でもあり、かつ近衛天皇の兄である雅仁親王の皇子・守仁親王です。

結局、次期天皇として雅仁親王の皇子・守仁親王が後継者として決められることとなるのですが、この時、雅仁親王は存命中であったため父の雅仁親王が、中継ぎ天皇として29歳で即位することとなりました。(後白河天皇)

 

崇徳天皇の不満

自身の父親である鳥羽天皇から退位を迫られ、譲位した崇徳上皇からすると、近衛天皇、後白河天皇、自身の2人の弟が即位したということとなります。

そのため院政を行うこともできず、また自身の息子・重仁親王も即位することが完全に不可能となってしまいました。

つまり崇徳上皇の血筋は皇室に残らなくなっていったという結果となり、崇徳上皇の不満はたまる一方となります。

 

鳥羽法皇の崩御

こうして後白河天皇による新体制が成立となりましたが、新体制の基礎が固まらない中、保元元年(1156)5月、鳥羽法皇が病に倒れます。

天皇後継者問題に対し不満を持つ崇徳上皇、摂関家の家督争いに不満を持つ藤原頼長を鳥羽法皇の権威を盾に2人を抑圧していた藤原忠道、院近臣にとって鳥羽法皇が病に倒れるということは重大な政治的危機でした。

しかし、自身が倒れると藤原忠道、院近臣らに重大な政治的危機が及ぶということは鳥羽法皇自身も分かっていたことであり、鳥羽法皇は病に倒れる前から源為義・平清盛ら北面武士10名を味方につけていたのです。

保元元年(1156)7月、鳥羽法皇はとうとう危篤状態となります。

そんな中、崇徳上皇は危篤状態となった父・鳥羽法皇の見舞いに向かうも対面は許してもらえず、崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返しました。

後白河天皇方と崇徳天皇方の対立

7月2日、鳥羽法皇は崩御となります。

しかし、ほどなくして崇徳上皇が藤原頼長が共謀して国家に反乱を企てている。という噂が流れます。

このような噂が流されたため崇徳上皇は対策を取りますが、後白河天皇は藤原忠実・頼長らに対し荘園から兵を集めることを禁止、また藤原頼長に対し謀反の疑いとして財産没収の刑を与えました。

このような朝廷の動きに命の危機を感じた崇徳上皇は保元元年(1156)7月9日、自身の屋敷である鳥羽田中殿を夜中に抜け出し統子内親王の御所へと身を隠します。

この際、藤原頼長も駆けつけました。

この御所は洛東白河にあったとされ、軍事に不向きな土地であったとされています。

しかし、南には平家一門の邸宅や鎌倉幕府の六波羅探題があったため平家を味方につけようとし、この場所を選んだのではと推測されています。

 

両軍の兵

崇徳上皇が逃げ込んだ御所には、崇徳の側近である藤原教長や藤原盛憲・経憲、平家弘・源為国・源為義・平忠正などが集結します。

しかし、後白河天皇方に比べ兵の数は少なく、戦う前から勝敗が見えていました。

一方、崇徳上皇方の動きを察知した後白河天皇方も源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政・源重成・源季実・平信兼・平維繁らを召集し出撃の準備に備え始めます。

 

後白河天皇方による夜襲と崇徳上皇方の敗北

こうして7月11日未明、後白河天皇方による夜襲が行われ、崇徳上皇方の陣営・白河北殿に火が放たれると、崇徳上皇方は総崩れとなりました。

崇徳上皇と藤原頼長は陣営に火が放たれると、脱出し行方をくらませます。

 

崇徳上皇のその後

逃亡していた崇徳上皇は13日に仁和寺に出頭し、同母弟・覚性法親王に仲立ちを依頼しました。

しかし覚性法親王にこれを拒まられたあげく、後白河天皇方の武士に捕えられ源重成の監視下に置かれた後、讃岐に配流されました。

配流先の讃岐において、崇徳上皇は長寛2年(1164)9月14日に崩御しましたが、死後、怨霊として恐れられることとなります。

 

藤原頼道のその後

一方、行方をくらませていた藤原頼長は合戦で重傷を負いながらも南都まで逃れました。

しかし、藤原忠道に対面を断られ、仕方なく叔父・千覚のもとに身を置くも14日に亡くなります。

 

平治の乱との違い

保元の乱後、後白河天皇の側近であった藤原通憲(信西)が主導権を握るようになります。

藤原通憲(信西)は平清盛と繋がっており、平清盛の武力を背景に「保元の新制」を出すなど後白河天皇とともに国政改革を立案・推進を行いました。

しかし、平清盛と繋がりを持ち、国政改革を進める藤原通憲(信西)に対し、同じく後白河天皇の側近であった藤原信頼が不満を持つようになり、源義朝と結びます。

こうして、藤原信頼と源義朝は、平清盛が熊野詣の留守中に挙兵し、藤原通憲(信西)を自害に追い込みました。

これに対し、平清盛は京都へ帰還すると藤原信頼、源義朝らを滅ぼし、源義朝の三男・源頼朝を伊豆へと配流します。

この一連の騒動を平治の乱と呼び、平治の乱において政権は平氏へと移ることとなりました。

 

まとめ

保元の乱をわかりやすく解説いたしました。

保元の乱は天皇の後継者問題、摂関家の内紛が混合した複雑な乱です。

崇徳上皇方に勝利した後白河天皇は、その後、側近の藤原通憲(信西)とともに国政改革を行いましたが、院近臣らの対立によって発生した平治の乱に巻き込まれることとなりました。