平清盛について!子孫や家系図などを含めその生涯を解説!

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平清盛は、平安末期に活躍した武将です。

平治の乱で勝利をおさめ、武士として初めて太政大臣に任命されました。

そんな平清盛の生涯、子孫、家系図について解説していきます。

平清盛の生い立ち

平清盛は平忠盛の長男として、永久6年(1118)に京都にて誕生しました。

実母については不明とされていますが、祇園女御の妹ではないかと推測されています。

しかし、平清盛が3歳の頃、母親とされる女性が亡くなったため、平清盛は祇園女御と呼ばれる女性の下で育てられたようです。

後に、出世を果たす平清盛ですが、その出自は不明な点が多く、平家の家系図の平清盛の母の記載については空白となっています。

保延4年(1138)になると、詳しい経緯は不明ですが、平清盛よりも身分の低い高階基章の娘を正室に迎えました。

2人の間には、重盛、基盛が生まれましたが、正室・高階基章の娘とは死別したとされています。

 

肥後守となる

父・平忠盛が保延3年(1137)に熊野本宮を造営したことによって平清盛は肥後守に命じられます。

その後、久安3年(1147)には、鳥羽法皇の判官代であった平時信の娘・平時子を継室に迎え、宗盛が誕生しました。

 

瀬戸内海の制海権を手にする

安芸守に命じられた平清盛は瀬戸内海の制海権を手にし、父・平忠盛と共に西国へと勢力を伸ばし始めました。

またこの頃から平清盛は、宮島の厳島神社を信仰するようになったとされています。

父・平忠盛が仁平3年(1153)に亡くなると、平清盛は平氏一門をまとめる頭領となりました。

 

保元の乱、平治の乱

保元の乱

保元元年(1156)朝廷が、皇族継承問題や内紛によって、崇徳上皇方と後白河天皇方に分裂した保元の乱がおきます。

この保元の乱では、後白河天皇に味方し、勝利へと導きました。

この勝利によって平清盛は播磨守、大宰大弐となります。

 

平治の乱

その後、平治元年(1159)に起きた信西と藤原信頼、二条親政派の対立である平治の乱では政権を握っていた藤原信頼と、二条親政派を破りました。

この戦いの際、源義朝、源重成などの源氏の有力武士が滅亡となったため、平清盛の政治的地位は高まり朝廷の軍事力を掌握することとなります。

平清盛の栄華

その後、平清盛は継室であった平時子が後白河上皇の第一子である二条天皇の乳母となったことから二条天皇の後見役となり検非違使別当、中納言の地位が与えられました。

平治の乱以降、平清盛は後白河上皇と二条天皇との結びつきが強くなります。

 

後白河上皇の院政の停止

応保元年(1161)後白河上皇と平滋子の間に憲仁親王が誕生すると、平時忠と平教盛は憲仁親王を皇太子と正式に定める計画が立てられます。

これに腹を立てた二条天皇は、後白河院政を停止させ、平清盛は御所の警護に武士を派遣し警護にあたりました。

また自らの子・平盛子を関白であった近衛基実に嫁がせます。

そして平清盛は二条天皇によって院政を停止させられた後白河上皇に配慮して対立していた後白河上皇のために蓮華王院を建造させました。

このように平清盛は、二条天皇からの信頼を得て、娘を近衛基実に嫁がせることで、摂関家と親密な関係を結び、後白河上皇のために蓮華王院を建造させることで、平家と後白河上皇が対立関係とならないように努めたとされています。

 

後白河上皇の院政の復活

二条天皇が長寛3年(1165)に崩御すると二条天皇の息子・六条天皇が後継者となりますが、幼少であったため近衛基実が摂政となり政権を握りました。

この際、平清盛は大納言へと昇進を果たし、近衛基実の補佐役を務めます。

後白河上皇にとって、六条天皇は孫にあたる存在です。

そのため、後白河上皇の院政が再び始まろうとしていました。

しかし、これに対して平清盛は後白河上皇の性格、これまでの行動を踏まえ、後白河上皇の院政復活に不安を覚えます。

 

隆盛を極めた平家一門

仁安3年(1168)に平清盛が病によって倒れ、出家します。

その際、後白河上皇は平清盛が病に倒れたため、政治に影響が出ると考え、六条天皇を退位させ自身の第七皇子であった高倉天皇を即位させました。

病の回復を果たした平清盛は厳島神社の整備、日宋貿易の拡大に力を注ぎます。

嘉応元年(1169)に後白河上皇は出家し、法王となりました。

その後も平清盛と後白河法王との関係性は良好だったとされています。

この頃、平家は500余りの荘園を保有し、また莫大な財貨を日宋貿易で手にしていた時期でもあります。

このようなことから、平時平は「平氏にあらずんば人にあらず」と述べ、平家一門の栄華をたたえました。

 

衰退

隆盛を極めた平家一門でしたが、それに対して後白河法皇や後白河法皇周辺の院政勢力は不満を抱き始めます。

 

鹿ケ谷の陰謀

治承元年(1177)、鹿ケ谷の陰謀が起きます。

これは平家に不満を抱いた院政勢力が平家打倒の計画を企てた事件です。

結果、この計画は密告され平清盛によって、この鹿ケ谷の陰謀に関わった人物は処罰されることとなりました。

しかし、後白河法皇は処罰の対象にはならなかったとされています。

 

後白河法皇に対しクーデターを起こす

治承3年(1179)近衛基実の嫁いでいた平清盛の娘・盛子が亡くなると、後白河法皇は、平盛子の荘園を無断で没収し、平清盛の嫡男・重盛が亡くなると、これに対しても無断で平重盛の領地を没収しました。

また平清盛との関係性の深い近衛家の家督に対しても後白河法皇は平清盛に無断で口出しを行います。

これらについて何も報告を受けていない平清盛は憤慨し、同年11月に後白河法皇に対しクーデターを起こします。

 

治承三年の政変

平清盛が後白河法皇に対して起こしたクーデターは治承三年の政変と呼ばれています。

このクーデターで平清盛は反平家であった39名の公卿、院近臣をすべて解任させ、親平家派に入れ替えました。

また許しを請う後白河法皇を幽閉させ、治承4年(1180)高倉天皇が譲位すると高倉天皇と平清盛の娘・徳子の間にできた安徳天皇に践祚しました。

しかし、このクーデターによって、反平家勢力を多く誕生させることとなります。

 

平清盛の最期

反平家勢力は各地に広がり後白河法皇の第3皇子・以仁王が平家打倒の計画を企てました。

この平家打倒の計画には源頼政、源頼朝などの源氏が参加したとされています。

源氏軍に追い詰められた平清盛は四国の屋島、彦島に逃げ込むも、水軍を活用した源氏軍によって絶望的な状況となり、海上戦となった壇ノ浦の戦いで、平家は滅ぼされました。

平清盛はこの戦いの中、治承5年(1181)2月、熱病に倒れ64歳で亡くなったとされています。

平清盛の子孫

平清盛の男系の子孫たちは壇ノ浦の戦いでほとんどが亡くなったとされています。

しかし、平清盛には徳子の他にも多くの娘がいました。

その多くの娘のうちの1人が公卿である藤原隆房に嫁いだとされ、2人の間に藤原隆衡が誕生します。

 

今上天皇の直系の祖先にあたる

平清盛の娘と藤原隆房の間に誕生した藤原隆衡は坊門信清の女を正室に迎え、のちに北山の准后と呼ばれることとなる藤原貞子が誕生します。

この藤原貞子の孫が後嵯峨天皇の後宮となり、後深草天皇と亀山天皇の母となりました。

現在続く皇統は後深草天皇の子孫にあたるので、今上天皇の直系の祖先は平清盛にあたるとされています。

 

最後に

平清盛は、武士として初めて太政大臣に任命された人物でした。

天皇家と摂関家との結びを持ち平家一門は栄華を迎えますが、反平家の勢力は大きくなり壇ノ浦で平家は滅亡を迎えました。

しかし、平家滅亡後も平清盛が行っていた日宋貿易は鎌倉時代まで続いたとされています。この貿易で仏教経典の輸入を行ったことから鎌倉仏教に大きな影響を与えたとされ、平清盛が行った日宋貿易は日本に恩恵をもたらしたようです。