六波羅探題とは?場所や設置された理由、目的や役割について簡単に解説!

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六波羅探題とは鎌倉時代の役職の1つです。

承久3年(1221)に起こった後鳥羽上皇による倒幕を目的とした承久の乱の際、北条泰時と北条時房が幕府軍を率いて京都に攻め入ります。

承久の乱は幕府軍の勝利に終わりましたが、戦後も北条泰時と北条時房は京都に留まり、朝廷の監視と尾張以西の御家人統轄のために、それまであった京都守護を改組した六波羅探題が幕府によって設置されました。

そんな六波羅探題の設置理由と設置された場所、目的や役割を簡単に解説していきます。

 

六波羅探題が設置された経緯

承久3年(1221)、後鳥羽上皇によって倒幕を目的とした承久の乱が勃発します。

後鳥羽上皇は第82代天皇となった人物ですが、建久9年(1198)1月11日、自身の皇子・土御門天皇に譲位に譲位すると上皇として院政を開始しました。

土御門天皇のみならず、第84代天皇・順徳天皇、第85代天皇・仲恭天皇の際も上皇として院政を行い、上皇であるにも関わらず権力を持ち、事実上の天皇として君臨していたとされています。

天皇同様に権力を持ち院政を行っていた後鳥羽上皇は鎌倉幕府を討伐し天皇主権を取り戻そうと考え、承久3年(1221)承久の乱が勃発されました。

朝廷と鎌倉幕府との間で起きた承久の乱は、幕府軍の勝利となり、後鳥羽上皇は隠岐へと配流されます。

 

六波羅探題の設置理由

承久の乱の後、京都では戦後処理として後鳥羽上皇に味方していた公家や武士の所有する領地は没収され、幕府軍に貢献した御家人に恩賞として与えられます。

しかし、これらの領地はこれまで幕府が管理していなかった領地であり、また多くの領地は幕府の権限が届きにくい西国にありました。

そのため幕府は、権限の届きにくい領地に地頭と呼ばれる領地を管理支配する職を設置します。

しかし西国に地頭を置くだけではなく、朝廷の監視や朝廷周辺、つまり京都周辺の治安維持を行う必要がありました。

 

西国、朝廷の監視と京都の治安維持

そこで幕府は、京都白河南の六波羅にあった平清盛の屋敷を改築し役所とすると、北条泰時・北条時房の2人を六波羅の北方と南方の監視役として就けます。

六波羅探題のあった場所は現在の京都市立開睛小中学校付近とされ、範囲は明らかとなっていませんが、東は東山開睛館の東端、西は鴨川、南は五条通、北は松原通と推測されています。

この2人は承久の乱の際、鎌倉から幕府軍を率いて京都に攻め入った人物で、戦後も京都に留まっていました。

こうして、北条泰時・北条時房の2人によって西国の御家人と朝廷の監視が行われることとなります。

これが六波羅探題の始まりです。

 

京都守護

六波羅探題は承久の乱後に設置された機関ですが、承久の乱以前は京都守護と呼ばれる役職が京都の治安維持などを行っていました。

しかし、六波羅探題が設置されてことによって消滅となりました。

六波羅探題の目的

北条泰時、北条時房によって朝廷と西国の監視が行われましたが、六波羅探題が設立される以前から京都の治安維持を担う検非違使という役職があり、その検非違使が当初、主に京都の治安維持と朝廷の監視を行っていたとされています。

しかし、承久の乱の戦後処理の一環として京都周辺の軍事貴族を解体したところ、検非違使や上皇の身辺を警衛を行い院の直属軍であった北面武士の軍事力は低下し、京都の治安悪化に繋がりました。

これによって六波羅探題は検非違使と同様に京都の治安維持の責任を担うこととなりました。

 

六波羅探題の役割

六波羅探題は幕府の直接指揮下であり、西国、朝廷の監視以外に、西国において地頭と国司などが起こした紛争の裁判、京都周辺の治安維持、皇位決定の取り次ぎなどが六波羅探題の役割とされていました。

その後、文永11年(1274)にモンゴル帝国が日本に襲来した文永の役(元寇)の翌年になると、六波羅探題の役割はさらに強化され、これまで権限が無かった御家人に対する処罰の権限が与えられ、また寺社間の紛争解決、悪党鎮圧などの役割が追加されます。

 

六波羅探題の人事

六波羅探題は執権・連署に次ぐ重職とされました。

この役職は北方の監視役と南方の監視役、計2名のからなり、その2名は伝統的に北条氏の将来有望な若い人材が選抜されていたとされます。

六波羅探題に命じられた北条氏の2名は、六波羅探題の任期を終え鎌倉に帰還すると執権や連署に昇進する者が多くいました。

 

六波羅探題の北方と南方の違い

六波羅探題は北方、南方に分けられ朝廷の監視や京都の治安維持が行われました。

どちらも同じ目的をもっていましたが、北方の方が上席のポストであり北条氏の中でも家格の高い得宗家や極楽寺流などが北方となることができました。

南方から北方へと転任されたことはなかったとされ、南方で欠員が出る時期が多かったとされています。

 

六波羅探題の消滅

元弘3年(1333)後鳥羽天皇を中心とした鎌倉幕府倒幕運動である元弘の乱が勃発します。

足利高氏や佐々木道誉、赤松円心や石井末忠は後鳥羽天皇の令旨に応じ京都に攻め入ると当時、六波羅探題であった北条仲時と北条時益は京都から追放され、これによって六波羅探題は消滅となりました。

 

まとめ

六波羅探題を簡単に解説いたしました。

六波羅探題は承久の乱後に設立された役職で、主な役割は朝廷や西国の監視、京都周辺の治安維持、皇位決定の取り次ぎなどでしたが、文永の役以降は御家人に対する処罰の権限が与えられるなど多くの役割があったとされています。

承久3年(1221)に設置された六波羅探題は元弘3年(1333)には消滅し、その後永禄11年(1568)になると織田信長によって京都の治安維持を目的とした京都所司代が京都に設置されました。