藤原定家とは?式子内親王との関係性や百人一首、新古今和歌集や日記について解説!

藤原定家とは、鎌倉時代初期に活躍した公家・歌人で、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進した1人とされています。

また宇都宮頼綱空の依頼を受け『小倉百人一首』を撰じました。

そんな藤原定家の生涯と式子内親王との関係性、また百人一首や新古今和歌集、自身が記したとされる日記『明月記』について解説していきます。

藤原定家の生い立ち

藤原定家は平安時代末期にあたる応保2年(1162)、藤原北家御子左流の父・藤原俊成、母・美福門院加賀の次男として誕生しました。

父・藤原俊成は藤原定家が誕生する前から歌人として活躍していた人物で、文治4年(1188)に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進するなどし後白河院の歌壇の第一人者となった人物でした。

父・藤原俊成には数人の養子がいたとされ、歌人・寂蓮は従兄にあたります。

幼少のころから歌人でた父のもとで和歌を学んだ藤原定家は西行法師や平忠度とも親交があたっとされ、和歌の世界に没頭する日々を送りました。

16歳の頃、はじめて歌合に参加したとされています。

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日記『明月記』

治承4年(1180)藤原定家が18歳の頃、世は平氏討伐を目的とした源平合戦の真っ只中でした。

この年から藤原定家は『明月記』と呼ばれる日記をつけはじめ、源氏と平家の動乱に対し「世上乱逆追討耳ニ満ツトモ、之ヲ注ゼズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」世間では平家を討伐せよと騒いでいるが、そのような事はどうでもいい。と綴っています。

この日記『明月記』は治承4年(1180)から嘉禎元年(1235)までの56年間もの間、綴られるようになりました。

九条家に仕える

その後、文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した翌年、藤原定家は歌人・西行に勧められ『二見浦百首』を詠みます。

文治4年(1188)になると父・藤原俊成が『千載和歌集』を編纂し始め、藤原定家もその助手を務めたとされ、完成した『千載和歌集』に自身の和歌8首が採用されました。

ますます歌道に精進した藤原定家は九条家に家司として仕え始め、摂関の側近として活躍することとなります。

しかし、建久7年(1196)源通親がクーデターを起こし関白・九条兼実を追放すると、九条家は失脚となります。

藤原定家は自身の日記『明月記』において度々、政務の中心に参画することを希望するといった記述を残していましたが、九条家の失脚により、その願いはかなわず政治の要職に就くことは不可能となりました。

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『新古今和歌集』の編纂

正治2年(1200)不遇な現状から抜け出すため、後鳥羽院の『院初度百首』に詠進したところ、後鳥羽院の目に留まり、以降後鳥羽院から愛顧を受けるようになり、後鳥羽院主催の歌会や歌合に参加し「老若五十首歌合」「千五百番歌合」「水無瀬恋十五首歌合」に詠進しました。

後鳥羽院は建仁元年(1201)、藤原定家に『新古今和歌集』の編纂を命じ、藤原定家は 源通具、六条有家、藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮らとともに編纂作業を開始します。

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後鳥羽院との対立

編纂を開始した藤原定家でしたが、熱心に編纂作業を行うあまり、和歌の好みを巡り、後鳥羽院と対立するようになります。

しかし、対立しながらも4年の編纂作業を経て『新古今和歌集』は元久2年(1205)に完成しました。

その後も後鳥羽院と藤原定家の対立関係は続いたとされ、承久2年(1220)になると、藤原定家は後鳥羽院から歌会の参加の禁止など謹慎処分を受けることとなります。

しかし、後鳥羽院は承久の乱において完敗したため隠岐へと配流されることとなりました。

 

『新勅撰和歌集』の編纂

『新古今和歌集』の完成後の貞永元年(1232)6月13日、藤原定家は後堀河天皇の命を受け『新勅撰和歌集』の編纂を行います。

この『新勅撰和歌集』は藤原定家単独による編纂とされ、四条天皇代の文暦2年(1235)3月12日に完成しました。

 

『小倉百人一首』の編纂

嘉禎2年(1236)藤原定家が75歳の頃、以前から親交のあった武士で歌人でもある宇都宮頼綱から『小倉百人一首』の編纂を依頼されます。

宇都宮頼綱の依頼内容は、宇都宮頼綱の別荘・小倉山荘の襖に飾る装飾として藤原定家に編纂を行ってほしいといったものでした。

この依頼を受けた藤原定家は飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの和歌の編纂を行い、それらの編纂された和歌を色紙にまとめます。

完成した詳しい年は分かっていませんが、13世紀の前半とされています。

後に藤原定家が編纂した『小倉百人一首』は影響を与えることとなり『新百人一首』や『新百人一首』『新撰武家百人一首』などが編纂されるようになりました。

 

藤原定家の最期

その後、天福元年(1233)10月11日になると藤原定家は出家し、「明静」と名乗り、仁治2年(1241)8月20日、80歳で亡くなりました。

式子内親王との関係性

式子内親王とは平安時代末期に活躍した後白河天皇の第3皇女です。

平治元年(1159)から嘉応元年(1169)まで、賀茂神社に奉仕を行う斎院であった式子内親王は、その生涯独身を貫いていました。

そんな式子内親王は和歌に優れた女性であり、女性皇族でありながら、「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」という和歌が「百人一首」に採られたこともありました。

 

恋愛関係とされた2人

式子内親王に和歌を教えていたのは藤原定家の父・藤原俊成であったことから、藤原定家と式子内親王は交流を持つようになったとされています。

治承5年(1181)正月、体調を崩した式子内親王に見舞いをするため、藤原定家ははじめて式子内親王のいる三条第に訪れました。

以降も度々、式子内親王の屋敷に足を運んだ藤原定家は内親王家で家司のような仕事を行っていたとされています。

 式子内親王は「いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし」私は明日まで生きているかわからない。今日の夕暮れに、もし会えるならなら会いに来て。という和歌を詠んでいます。

この和歌は藤原定家にあてたものではと考えられており、藤原定家と式子内親王は恋愛関係であったのではと考えられています。

 

法然との関係

しかし、建久2 (1191) 年頃、式子内親王は謀反の疑いをかけられ出家します。

その際、僧・法然を師としたとされ、式子内親王は法然との恋愛関係もあったのではと考えられています。

 

まとめ

藤原定家は歌人・藤原俊成を父に持ち、幼いころから和歌の腕を磨いてきました。

その才能は後鳥羽院に気に入られるようになり、『新古今和歌集』の編纂を命じられます。

その後も『新勅撰和歌集』、『小倉百人一首』の編纂を行いました。

藤原定家の詠む和歌は、官能的な美を追求したものが多いとされ「美の使徒」「美の鬼」と呼ばれています。