鎌倉時代とは?文化・食事・服装また武士や年表について解説!

平氏と源氏の権力争いが終結し、源頼朝(みなもとのよりとも)によって相模国鎌倉に武家中心の政府が誕生した事がはじまりとなる鎌倉時代。

この後、新田義貞(にったよしさだ)の軍勢によって幕府が滅ぶまでの間、約140年間鎌倉を中心に日本の統治が行われました。

この鎌倉時代がどのような時代であったのか、食事や服装などの文化や歴史的出来事を詳しく調べてみたいと思います。

最後に鎌倉時代の重要事項の年表もつけておきますので勉強の参考にしてみてください。

鎌倉時代の誕生はいつ?

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」鎌倉幕府の誕生の覚え方を学校の歴史の授業でこのように習った方も多いと思いますが、現在では成立に関しては3つの説が有力になっています。

  1. 1183年(寿永2年)10月、朝廷から源頼朝に対して、東国の支配を公認する宣旨(せんじ)が出されたことをもって誕生とする説。
  2. 1185年(文治元年)12月、朝廷が諸国の守護、地頭の任免権を源頼朝に許可したことをもって誕生とする説。
  3. 1192年(建久3年)頼朝が征夷大将軍に任命されたことをもって誕生とする説。

 

これ以外にも1190年、1180年説もあり、今後の研究による成果が待たれています。

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鎌倉幕府の政治体制

東国の武士による本格的な武家政権として誕生した鎌倉幕府でしたが、カリスマ的な存在であった頼朝が世を去ると、御家人同士の権力闘争が表面化します。

暗殺などによって頼朝の直系血族は断絶し、頼朝の正室であった正子の実家である北条氏が実権を掌握、得宗(とくそう)として支配権を確立しました。

幕府と御家人は幕府が所領支配を保証、新所領の給与する御恩と御家人が幕府に対して行う軍役や財政負担の奉公とによって結ばれた関係で成立していました。

幕府は将軍(のちに得宗)を頂点に執権、連署の補佐役、評定衆、寄合衆、引付衆の諮問機関、御家人を統率する侍所、幕府の財務、政府を行う政所、幕府へ提訴される訴訟を裁く問注所が中央政府として鎌倉に置かれます。

地方の政務には有力御家人を守護、地頭に任命してこれに当たらせ、京都には朝廷、西国御家人の監視を行う六波羅探題、九州には鎮西探題が設置されました。

 

鎌倉時代の武士

源頼朝に従って平氏討伐に参加した東国武士が、頼朝と主従関係を結び家来になり、その後に頼朝が東国支配権を確立すると、頼朝の支配下に入ってくる武士や吏僚が急増します。

これら頼朝の家来となった者を組織化するために家来を一律に御家人とし、この中から守護職、地頭職を任じて各地を治めさせました。

鎌倉時代の思想、宗教

鎌倉文化は朝廷や公家が担い手で発達してきた貴族文化から、政治や経済で公家を圧倒し始めた武士が新たな文化を形成し始めた時代になります。

宗教、思想では鎌倉新仏教6宗、法然(ほうねん)を宗祖とする浄土宗、法然を師事した親鸞(しんらん)が広めた浄土真宗、一遍(いっぺん)を開祖とする時宗、日蓮(にちれん)が興した日蓮宗(法華宗とも言う)、栄西(えいさい)によって宋より伝えられた臨済宗、道元(どうげん)によって同じく宋から伝えられた曹洞宗が誕生しました。

 

鎌倉時代の文化

鎌倉時代以降の武家中心の政治体制に大きな影響を与えた朱子学が、宋から伝来したのも鎌倉時代と言われており、日本の庭園史上もっとも重要な人物である臨済宗の高僧・夢窓疎石(むそうそせき)が活躍したのも鎌倉時代です。

また東大寺南大門金剛力士像を製作した運慶(うんけい)とその弟子・快慶(かいけい)らの彫刻一派「慶派」の作品が数多く造られたのもこの時代です。

 

鎌倉時代の食事

平安時代に栄えた貴族文化から鎌倉時代の武家文化への転換によって食文化も大きく変わりました。

公家の食事は白米(蒸した強飯)に魚介類と野菜を塩で味付けしたものが主流で、新鮮な肉や魚は都からは遠くで採取されるため、ほとんど加工された保存食として食されていました。

このため偏った栄養バランスとなり、長生きすることができなかったと言われています。

これに対して東国武士を中心とした武士の食事は、玄米に採れたて新鮮の肉や魚、野菜をひしおと呼ばれる醤油の仲間や塩、味噌で味付けしたものを食していました。

一般的な武士の食事の例は玄米、干し魚、根菜の煮物、梅干し、汁物(大根など)でこれにお酒が付いたものを平時は一日2回、戦時は5回ほど食べていました。

ちなみにご飯に梅干しという組み合わせは、鎌倉時代の武士が考案したのが始まりです。

 

鎌倉時代の衣服

鎌倉時代の衣服は平安時代などに比べて、はるかに動きやすい服装へと変化しました。

武士は襟が真っ直ぐに下がる直垂(ひたたれ)という衣服に上衣を胸でしっかりと結び、袴も足首で結び、腰に刀を差し、頭には烏帽子の出で立ちです。

公家が使用していた束帯(そくたい)に比べて軽装で自由活発な印象となりました。

武家の女性は壺装束(つぼしょうぞく)と言われる衣服で、長めの着物を腰で帯留めして、帯の上に着物を膨らませ出して整えるスタイルで、頭には虫除けや身分を隠すために市女笠(いちめがさ)を被りました。

民衆の男性は小袖(袖の部分が小さい服)に袴、女性も小袖を着て裾をたくしあげて留め、長い髪は白い布で被って整えていました。

鎌倉時代の年表

約140年続いた鎌倉時代に起こった主な出来事を年代順にまとめました。

 

1185年

源頼朝が朝廷より守護、地頭の任免権を与えられる。

 

1189年

奥州合戦で奥州藤原氏滅亡。

 

1191年

栄西が臨済宗を伝える

 

1192年

源頼朝が征夷大将軍となる。

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1199年

源頼朝が死去し、源頼家が将軍職を継ぐ。

 

1200年

梶原景時(かじわらかげとき)の変

侍所別当であった有力御家人の梶原景時が権力争いに敗れ、一族は滅亡。

 

1201年

建仁の乱

梶原景時の庇護を受けていた城氏一族が幕府に対して反乱を起こすが鎮圧され城氏は滅亡。

 

1203年

比企能員(ひきよしかずのへん)の変

北条時政(ほうじょうときまさ)と二代頼家の舅に当たる比企能員の権力闘争で比企一族は滅亡、時政は執権となる。

源実朝(みなもとのさねとも)が3代目将軍に就任。

運慶、快慶が東大寺南大門の金剛力士像をつくる。

 

1204年

源頼家が北条氏によって暗殺される。

 

1205年

畠山重忠(はたけやましげとき)の乱

武蔵国の有力御家人・畠山重忠が北条義時(ほうじょうよしとき)に討たれる

牧氏事件

将軍の後継者争い。父・北条時政と牧の方と、息子・北条義時と娘・北条政子とが権力を争い、北条義時が勝利して執権となる。

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1213年

和田合戦

侍所別当・和田義盛と執権・義時の権力闘争で和田義盛は敗死。

 

1219年

源実朝が鶴岡八幡宮で頼家の子である公暁(くぎょう)に暗殺される

 

1221年

承久の乱(じょうきゅうのらん)

後鳥羽上皇による幕府への反乱。

幕府が勝利して支配権が西国にも及ぶようになり、京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)が設置された。

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1224年

北条義時が死去し北条泰時が執権となり、連署(執権の補佐役)が設置される。

念仏、悪人正機、他力本願を唱える浄土真宗の布教を法然がはじめる。

 

1225年

北条政子が死去し、評定衆(幕府の諮問機関)が設置される。

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1226年

源頼朝の血を引く九条頼経(くじょうよりつね)が4代目将軍となり、この後摂家将軍となる。

 

1227年

道元が曹洞宗を伝える。

 

1232年

御成敗式目(ごせいばいしきもく)が制定される。

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1235年

藤原定家による私撰和歌集「小倉百人一首」が完成。

 

1246年

宮騒動(寛元の乱、寛元の政変)

北条氏内部の対立、北条光時が反乱を起こすが、執権・北条時頼が勝利。

 

1247年

宝治合戦

執権北条氏と幕府創設以来の大族御家人・三浦氏の権力闘争で三浦氏が滅亡。

 

1249年

引付衆(幕府の諮問機関)が設置される。

 

1252年

宗尊親王(むねたかしんのう)が6代将軍に就任し皇族将軍となる。

鎌倉大仏(阿弥陀如来坐像)が完成。

 

1253年

日蓮が法華経、南無妙法蓮華経、立正安国論を唱え、日蓮宗の布教を始める。

 

1268年

北条時宗が執権となり、元からの服属要求を断る。

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1272年

二月騒動

北条氏一族の争いで一門の名越氏と時宗の異父兄・北条 時輔(ほうじょうときすけ)が謀反、ともに討伐された。

 

1274年

元寇・文永の役(ぶんえいのえき)

元、高麗の連合軍が博多湾から上陸するが日本軍の必死の防戦と暴風雨で退却に至る。

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1281年

元寇・弘安の役(こうあんのえき)

元・高麗軍が再び襲来するが総攻撃の直前の暴風雨で壊滅。

 

1282年

北条時宗が円覚寺舎利殿(えんかくじしゃりでん)を建立

 

1285年

霜月騒動

北条得宗家被官(御内人)の筆頭である内管領・平頼綱(たいらのよりつな)と有力御家人で評定衆だった安達泰盛(あだちやすもり)の争い。安達氏が敗れ、鎌倉幕府の有力御家人のほとんどが壊滅した。

 

1293年

平禅門の乱(へいぜんもんのらん)

内管領・平頼綱が執権・北条貞時によって滅ぼされる。

 

1297年

永仁の徳政令発布

日本初の徳政令が発布された。

 

1305年

嘉元の乱(かげんのらん・北条宗方の乱)

得宗・北条貞時に得宗家執事(内管領)北条宗方(ほうじょうむねかた)が反旗を翻した北条氏の内乱、宗方が敗北。

 

1318年

後醍醐天皇が即位。

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1322年

安藤氏の乱

蝦夷代官職の安藤氏が内紛と蝦夷の蜂起によって討ち滅ぼされた。

 

1324年

正中の変(しょうちゅうのへん)

後醍醐天皇による討幕未遂事件。

 

1326年

嘉暦の騒動(かりゃくのそうどう)

執権である北条氏得宗家の家督継承の争い。14代執権・北条高時の外戚となる安達氏と内管領・長崎氏の対立。

 

1330年

随筆「徒然草」が吉田兼好によって執筆、完成した。

 

1331年

元弘の乱(げんこうのらん)

後醍醐天皇による討幕計画で、護良親王(もりよししんのう)や楠木正成(くすのきまさしげ)などが挙兵したが失敗に終わる。

初代北朝天皇となる光厳天皇が即位。

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1332年

後醍醐天皇が隠岐に流される。

 

1333年

鎌倉幕府滅亡

六波羅探題が足利尊氏(あしかがたかうじ)に、鎮西探題が少弐貞経(しょうにさだつね)らにより壊滅。

新田義貞が鎌倉へ攻め込み幕府を滅亡させる。

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鎌倉時代のまとめ

源頼朝によって鎌倉に幕府が開かれたことによって、日本で本格的な武士による統治がはじまりました。

しかし、源頼朝が世を去ると代々の将軍をも巻き込んで延々と権力争いを繰り返し、それによって幕府自身が弱体化していく悪瞬間に陥ります。

文化、宗教的には大きな変革のあった時代ですが、政治的にはあまり進歩はなく、大きな変革は戦国時代以降へ持ち越すことになります。

貴族政治、貴族文化から武家政治、武家文化への転換期となった鎌倉時代は、ここから江戸幕府が滅ぶまでの約700年に及ぶ武士中心の社会構成が始まった時代だったのです。