北条政子とは?演説や夫、墓・家系図・名言や悪女などの性格について解説!

北条政子は源頼朝の妻となった女性です。

夫亡き後、北条政子は藤原頼経の後見となり幕府の実権を握りました。

その後、尼将軍と呼ばれた北条政子は後鳥羽上皇による北條義時の討伐を知ると、御家人たちに対し団結、奮起を促す演説を行います。

そんな北条政子の生涯や夫・源頼朝との関係、墓や家系図、また名言などを解説いたします。

北条政子の生い立ち

北条政子は保元2年(1157)北条時政の長女として誕生しました。

伊豆国の豪族であった父・北条時政は平治の乱で伊豆に配流された源頼朝の監視役を務めていました。

源頼朝との結婚

源頼朝と北条政子は源頼朝の監視役であった父・北条時政の不在中に恋仲になったとされています。

治承元年(1177)頃に2人は婚姻したと推定されていますが、当時は平氏全盛の時代であったため、父・北条時政は源頼朝との結婚に大反対しました。

しかし、最終的には北条政子と源頼朝の結婚は認められ、長女・大姫を授かります。

その後、夫・源頼朝は東国の武士たちを味方につけ後に鎌倉幕府がおかれた鎌倉に北条政子を連れ向かいました。

治承4年(1180)には富士川の戦いに勝利し、東国の主となった夫・源頼朝は鎌倉殿と呼ばれ、北条政子は御台所と呼ばれるようになります。

養和2年(1182)になると北条政子は第二子・頼家を出産しました。

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源義仲の討伐

夫・源頼朝は寿永2年(1183)に対立していた源義仲と和睦すると義仲の嫡子・義高と長女・大姫は婚姻関係を結びます。

しかし、元暦元年(1184)になると源義仲の討伐を決意し、弟・源範頼、義経によって源義仲は討死となりました。

その後、夫・源頼朝は源義仲の嫡男・義高を殺害すると、その妻であった長女・大姫は義高を亡くした悲しみから心の病となります。

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平家滅亡後

元暦2年(1185)には源氏は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。

弟・源義経とは対立関係となり、弟・源義経は奥州の藤原泰衡に攻められ自害となります。

この時に、源頼朝は奥州征伐へと奥州に向かいますが、北条政子は夫の戦勝を祈願するため鶴岡八幡宮に百度参りしていたとされています。

夫・源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後、建久元年(1190)に入京し、征夷大将軍と任命されました。

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第三子誕生

建久3年(1192)北条政子は第三子で、のちに第三代征夷大将軍となる源実朝を出産します。

建久6年(1195)になると北条政子は上洛し長女・大姫の後鳥羽天皇への入内を丹後局と協議しますが、長女・大姫は重い病気を患い建久8年(1197)に20歳の若さで亡くなってしまいました。

娘を亡くした北条政子は非常に悲しみ自身も娘の後追いをしようと考えていたとされます。

 

夫・源頼朝の死

夫・源頼朝は次女・三幡を入内させようとしましたが、土御門通親に阻まれ、また建久10年(1199)1月に夫・源頼朝は落馬が原因で命を落とし入内の計画は保留となります。

しかし、次女・三幡も同年6月に病によって亡くなったため入内の話は無くなりました。

 

第二子・源頼家が第二代将軍となる

夫・源頼朝亡き後、第二子であった源頼家が家督を継ぎ、北条政子は出家し尼となると尼御台と呼ばれるようになりました。

二代将軍となった源頼家は御家人や老臣たちと対立関係となります。

源頼家が安達景盛の妾を奪うといった不祥事を起こした際、北条政子はこの不祥事の騒ぎを収めるなどを行っていた記録が残されました。

源頼家は、蹴鞠を好み遊興にふけていたため、さらに御家人たちの不満は高まっていきました。

しかし、建仁3年(1203)に源頼家が病を発症し危篤状態となると北条政子と父・北条時政は源頼家の嫡男・一幡と源頼家の弟・実朝で日本を分割させることを決断します。

このことに対し、源頼家は激怒し北条氏討伐を命じます。

 

比企能員の変

こうして北条氏討伐を命じた第二子・源頼家でしたが、一方の北条政子も父・北条時政に使者を送り源頼家の家臣・比企能員を比企能員の変で殺害しました。

病によって危篤状態であった源頼家が危篤から回復すると家臣・比企能員が討伐されたことを知り祖父にあたる北条時政の討伐を決意しました。

しかし、この頃になると北条が実権を握っていたため、源頼家は北条政子によって権力を奪われ出家させられた後、修善寺に幽閉されることとなります。

その後、翌年の元久元年(1204)に源頼家は亡くなりました。

第四子・源実朝が第三代将軍となる

第二代将軍・源頼家の後を継いだのは北条政子の第四子・源実朝です。

この頃、北条政子の父・北条時政が初代執権に就任しており北条時政によって実権は握られていました。

父・北条時政は妻の牧の方とともに、政権を独り占めしようと企んでおり、それを知った北条政子は北条時政の館にいた源実朝を連れ戻します。

 

牧氏事件

元久2年(1205)父・北条時政と妻・牧の方が源実朝を廃しし、平賀朝雅を将軍として擁立させる計画を企てていました。

しかし、この計画を北条政子は弟・北条義時とともに阻止し、父・北条時政を伊豆へと追放し弟・北条義時が執権となります。

 

第三代将軍・源実朝が暗殺される

第三代将軍となった源実朝は亡き兄・源頼家とは違い、その教養から公家政権との融和を図っていました。

これに対して後鳥羽上皇は源実朝を優遇していたとされています。

しかし、公家と親密な関係を築く源実朝に御家人たちは不満を募らせ建保7年(1219)に源実朝は甥の公暁に暗殺されてしまいました。

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尼将軍と呼ばれる

こうして2人の娘と、2人の息子を亡くした北条政子は後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えることを強く願いました。

しかし、後鳥羽上皇は自身の皇子を将軍にすることを拒否します。

よって皇族の将軍を迎えることができなくなったことから弟・北条義時は摂関家の藤原頼経を次期将軍として迎え入れることとなりました。

迎えられた藤原頼経はこの時、2歳の幼児であったことから北条政子が将軍の代わりとなり、尼将軍と呼ばれることとなります。

 

承久の乱

承久3年(1221)鎌倉幕府は皇権の回復を望んでいた後鳥羽上皇と対立関係となり、後鳥羽上皇が京都守護・伊賀光季を殺害したことによって承久の乱が始まります。

後鳥羽上皇が弟・北条義時の討伐を諸国の守護と地頭に命じると、鎌倉の御家人たちは後鳥羽上皇が挙兵したことを恐れ、動揺するものが多くいました。

 

北条政子の演説

後鳥羽上皇の挙兵に動揺する御家人たちに対し、北条政子は「最期の詞」と称して亡き頼朝公の御恩を称え、三代にわたる将軍家の恩に報いるため、逆臣を討て。といった演説を行いました。

この演説に胸を打たれた御家人たちは奮起します。

 

幕府軍の勝利

後鳥羽上皇は、幕府軍が出撃してくることを予想しておらず、幕府軍19万騎の大軍に狼狽します。

各地で、幕府軍の大軍を恐れ敗退がなされ遂に、幕府軍が京都を占領すると後鳥羽上皇は北条義時討伐の命を取り下げ降伏宣言を行いました。

よって幕府軍の勝利となり、後白河上皇を隠岐島へ流した後、北条政子は承久の乱の戦後処理に力を注ぎます。

 

伊賀氏の変

貞応3年(1224)執権であった弟・北条義時が亡くなると、その嫡男・北条泰時が執権として期待されるようになります。

しかし弟・北条義時の後室であった伊賀の方は実子である北条政村の執権擁立の計画を企て有力御家人の三浦義村と手を結ぼうとしていました。

それを知った北条政子は三浦義村のもとへ向かい、三浦義村が北条政村の執権擁立の計画に加わっているのか詰問します。

この北条政子の詰問を認めた三浦義村は北条泰時への忠誠を誓い、北条政子は執権擁立計画を企てた伊賀の方を伊豆へと追放しました。

 

北条政子の最期

嘉禄元年(1225)北条政子は69歳で亡くなりました。

北条政子の墓は神奈川県鎌倉市にある寿福寺の第四子・源実朝の墓隣に建立されています。

北条政子の性格

嫉妬深い女性であった

北条政子はとても嫉妬深い女性でした。

夫・源頼朝は北条政子以外にも寵愛していた女性が数人いたとされています。

その中でも亀の前と呼ばれる女性を、北条政子が第二子・頼家の妊娠中に夫・源頼朝は非常に寵愛しており、それを知った北条政子は嫉妬心を抱き激怒します。

北条政子は牧宗親に亀の前の住んでいる伏見広綱の邸の打ち壊しを命じました。

命じられた牧宗親によって打ち壊された伏見広綱の邸からは、亀の前は逃げ出すも、この騒動を知った源頼朝に牧宗親は髻を切り落とされるといった処罰を与えられます。

その後、北条政子は伏見広綱を遠江国へ流罪としました。

当時の貴族は、一般的に複数の妻妾を持ち、多くの子孫を残すことが当たり前とされていた時代でした。

しかし、そんな時代でありながらも北条政子は、源頼朝が複数の妻妾を許さず、そのため源頼朝は隠れて妻妾の家に通っていたとされています。

 

日本三大悪女の1人

北条政子は日野富子や淀殿と並ぶ日本三大悪女の1人とされています。

北条政子の嫉妬深さから夫・源頼朝と妾が接することを許さず第二子・源頼家、第三子・源実朝の暗殺によって結果的に後継者不足を招くこととなり、また女性でありながらも源氏の嫡流が途絶えると実権を握り、承久の乱で朝廷を破ると、後鳥羽上皇を流罪に追い込みました。

このようなことから、北条政子は日本三大悪女の1人と呼ばれるようになります。

 

北条政子の子孫

北条政子には4人の子供がいました。

第一子の長女・大姫は病によって20歳で亡くなり第二子・源頼家は暗殺、第三子の次女・三幡が14歳で亡くなると、残されたのは第四子の源実朝でしたが源実朝も暗殺によって亡くなります。

こうして北条政子と夫・源頼朝との間にできた子供たちは全員亡くなりました。

夫・源頼朝は大進局という妾との間に貞暁という男子が誕生していましたが、貞暁は出家してしまったので、貞暁が亡くなったことから、源頼朝の男系男子の子孫は断絶となります。

北条政子の家系図では、父・北条時政よりも以前の系譜が曖昧であり、また北条氏の執権終了以降の系譜も明確にされていません。

 

名言

「故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい。」

承久の乱の際、後鳥羽上皇が挙兵したことを恐れ、動揺する御家人たちに向けて北条政子が発した最後の詞と呼ばれる演説は、御家人たちの団結や奮起を促す演説となり、承久の乱に勝利する原動力となった言葉でした。

 

最後に

北条政子は夫・源頼朝が亡くなると、強いリーダーシップを発揮し、最後の詞と呼ばれる演説は御家人たちの団結や奮起を促し承久の乱において勝利をもたらしました。

この演説によって心を動かされた御家人たちが多くいたようで、中には演説を聞き涙を流した者までいたとされています。
しかし、2人の息子が暗殺されると実家の北条家が政権を握るようになり亡き夫・源頼朝の夫人としては倫理観に欠けるとされ、また嫉妬深い性格から後に日本三大悪女の1人とされるようになりました。