公家とは?使用されていた苗字や言葉、公家の現在について解説!

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鎌倉幕府成立以降、武力で天皇に奉仕していた幕府を武家と呼ぶように、儀式と文治で天皇に奉仕していた宮廷貴族のことを「公家」と呼ぶようになりました。

つまり公家とは朝廷に仕える貴族、上級官人の総称であります。

そんな公家に概要や使用されていた主な苗字、使われていた言葉や公家の現在について解説していきます。

公家とは

公家とは朝廷に仕える貴族、上級官人の総称です。

その公家の中でも五位以上の位階を与えられたものは貴族とされ、その貴族の中でも三位以上の位階を与えられた者は公卿と呼ばれました。

公卿とは太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議を指します。

しかしこの公卿になれる家柄、家格も決まっており、公卿となれたのは、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家だけでした。

これら摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家は総称して堂上家と呼ばれて、この堂上家の中でも家柄によって就ける地位が異なりました。

 

摂家

鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流であり大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任することができました。

近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家が摂家であり摂関家、五摂家、執柄家とも呼ばれていました。

 

清華家

大臣・大将を兼ねて太政大臣となることができました。

久我家、三条家、西園寺家、徳大寺家、花山院家、大炊御門家、今出川家、7家が大臣・大将及び太政大臣になることができましたが、後に広幡家、醍醐家が加えられました。

しかし、江戸時代になると太政大臣は摂家のみに限られていたとされています。

 

大臣家

摂家、清華家に次ぐ家格です。

もともと大臣家は清華家の庶流から生まれた家であり、清華家に準じて昇進した後、大臣に欠員が出た場合、大納言から近衛大将とならなくても直接、内大臣に昇進することのできる家柄でした。

しかし清華家とは異なり近衛大将と兼任することはできなかったとされています。

大臣家の叙任の中で最高の官位となったのは太政大臣でしたが、三条西実条と中院通躬が右大臣に昇進した例も残されています。

正親町三条家、三条西家、中院家が大臣家となっていました。

 

羽林家

摂家、清華家、大臣家よりも格下であり、名家と同列の家柄です。

近衛少将・中将を兼ね、参議から中納言、最高は大納言まで昇進することができます。

しかし、稀に右大臣にまで昇進する者もいたとされています。

羽林家は姉小路家、阿野家、梅園家、裏辻家など計65家が該当します。

 

名家

羽林家と同列の家柄です。

羽林家と同様に最高官職となるのは大納言でしたが、羽林家が近衛中将などの武官職を経験した後、大納言に昇進するのに対し、名家は侍従や弁官といった文官を経験したのち大納言に昇進することができました。

30家を超える日野流藤原氏、勧修寺流藤原氏、桓武平氏の諸家が名家に該当しましたが、中でも、日野家、広橋家、烏丸家、柳原家、竹屋家、裏松家、甘露寺家、葉室家、勧修寺家、万里小路家、清閑寺家、中御門家、坊城家は十三名家と呼ばれています。

 

半家

堂上家の中でも最下位の貴族となります。

羽林家や名家に準じて昇進することができましたが、公卿となっても非参議に留まる者が多かったとされています。

半家は藤原氏、清和源氏、宇多源氏、花山源氏、桓武平氏、菅原氏の26家が該当します。

平安時代の公家

平安時代末期頃、公家の上流貴族が荘園・公領に対する収取権を持つようになると中流貴族は上流貴族から荘園の管理権を与えられ、これによって貴族たちは政治基盤を築き上げていきました。

 

鎌倉時代の公家

鎌倉幕府成立以降、軍事警察権と東国支配を担当し、武力で天皇に奉仕していた鎌倉幕府(武家政権)を武家と呼ぶように、それと対比する政務一般と西国支配を担っていた朝廷(公家政権)の貴族たちは公家と呼ばれるようになりました。
この両政権が連帯し政務を行っていたのですが、朝廷と幕府、武家と公家との間で「公武関係」また「公武関係」が誕生します。

平安時代末期において公家は荘園・公領に対する収取権を持ち、経済的基盤を築いていましたが、この頃になると公家の経済的支配権は武家に浸食されることとなります。

 

室町時代の公家

室町時代に入ると、各国に守護大名が出現し公家は有名無実化となりました。

公家の権力が無力化したところで、古典文学の研究に力をいれるものや、朝廷に出仕しつつ将軍家の私的な家政職員として仕える者、また都から離れ諸国に下向し荘園の経営を行う者もいたとされています。

 

江戸時代の公家

江戸時代にはいると公家たちは御所周辺に集められます。

公家は幕府から保護を受けることとなりましたが、幕府によって朝廷や天皇を支配するための禁中並公家諸法度が徳川家康によって発せられました。

 

明治時代の公家

明治維新を迎え、都が東京とさだめられます。(東京奠都)

この際、公家は解体され、明治維新後に新たに追加された公家も含め、427家の公家は華族と呼ばれる身分へと移行となりました。

この華族制度は第二次世界大戦の終戦まで続きましたが昭和22年(1947)5月3日の日本国憲法施行に伴い、第十四条において華族は消滅となりました。

この第十四条には法の下の平等、貴族の禁止、栄典が記されています。

よって現在、公家という身分はありませんが苗字は受け継がれています。

 

公家言葉

公家言葉とは、京都で用いられていた京言葉の1つです。

京言葉とは現代の京都弁にあたります。

京言葉は平安京が建設された平安時代から江戸時代中期まで、日本の中央語(標準語)として使用されていました。

京言葉には公家言葉(御所言葉)、町ことば(町方ことば)があり、公家の間で使用されていたのが公家言葉(御所言葉)です。

宮中や公家の間において室町時代初期から女官の間で使用されていた公家言葉(御所言葉)は、語頭に「お」をつけるといった特徴があり、優美で上品な言葉遣いとされ宮中にいた女官のみならず、将軍に仕える侍女や、武家や町家の女性に使用されるようになり、さらに男性までに広まりました。

公家言葉(御所言葉)の一部は今でも使用されています。

 

まとめ

公家とは朝廷に仕える貴族、上級官人の総称です。

公家の中でも五位以上の位階を与えられた者は貴族と呼ばれ、貴族の中でも三位以上の位階を与えられた者は公卿と呼ばれていました。

公卿になれる家柄は決まっており、またその中でも家柄によって就ける地位が異なっていたとされています。

明治に入り公家は華族と呼ばれる身分に移行となりましたが、日本国憲法施行に伴い華族はは廃しされ、現在華族となる身分はありません。

しかし、昭和後期から平成にかけて公家文化が見直しされ、旧公家によって交流を目的とした堂上会と呼ばれる団体が設立されました。