坂上田村麻呂とは平安時代、桓武天皇に重用され征夷大将軍として蝦夷征討を行った人物です。
蝦夷征討では500人を率いる敵軍の阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が降伏したため蝦夷征討に功績を残したとされています。
また京都の清水寺を創建した人物とされ、『清水寺縁起』や『清水寺縁起絵巻』などに清水寺草創伝承が描かれています。
そんな坂上田村麻呂の生涯や子孫、阿弖流為(アテルイ)や清水寺との関わりについて解説していきます。
坂上田村麻呂の生い立ち
坂上田村麻呂は奈良時代にあたる天平宝字2年(758)、父・坂上苅田麻呂の次男または三男として誕生しました。
幼少期の記録などは残されていませんが父・坂上苅田麻呂は陸奥鎮守将軍を任されていたため、坂上田村麻呂は近衛府で勤仕していたとされています。
現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に住んでいた人々のことを蝦夷と呼びますが、飛鳥時代にあたる大化年間頃から中央政権によって蝦夷開拓が図られ、蝦夷と朝廷の間には個別の衝突があったとされています。
坂上田村麻呂が誕生した頃、陸奥国は蝦夷との戦争が激化していまいした。
延暦8年(789)に、公卿・紀古佐美が軍を率いて蝦夷との衝突を起こしましたが、阿弖流為(アテルイ)率いる大軍に敗れ、大敗となります。
その後、延暦11年(792)に再び行われた蝦夷討伐において坂上田村麻呂は武人・大伴弟麻呂を補佐する征東副使となります。
征夷大将軍となる
延暦15年(796)1月25日になると陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、また鎮守将軍も兼任します。
その後、延暦16年(797)11月5日には桓武天皇から征夷大将軍に命じられました。
延暦20年(801)2月14日、平安京から4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて蝦夷最大の根拠地である胆沢(現在の岩手県)に向かいます。
胆沢に到着すると胆沢攻略を果たし、この地に胆沢城を築きました。
この際の詳しい戦いの内容は不明とされていますが、この戦いにおいて、胆沢から蝦夷勢力は一掃されたとされ、阿弖流為(アテルイ)は敗北したとされています。
翌年4月15日に朝廷軍に敗北した、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)が坂上田村麻呂のもとに500人の兵を率いて降伏したとされて、坂上田村麻呂は2人を連れ平城京へと入ります。
坂上田村麻呂は自ら降伏した阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の助命を嘆願しましたが、平安京の公卿たちは助命を反対し、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)は阿波国で処刑となりました。
その後、延暦22年(803)3月6日に平安京を後にし陸奥国へ下ります。
蝦夷討伐の中止
延暦23年(804)1月19日、桓武天皇は4度目となる蝦夷討伐の計画を開始しました。
この4度目となる蝦夷討伐においても坂上田村麻呂は征夷大将軍に選抜され自身3度目となる遠征を行います。
副将軍には百済教雲、佐伯社屋、道嶋御楯、軍監8人、軍曹24人が任命されていました。
蝦夷討伐の準備を進める一方で坂上田村麻呂は造西寺長官にも任命されています。
しかし、延暦24年(805)6月23日に参議・藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と述べると桓武天皇がこれを取り入れたため、蝦夷討伐は取りやめとなりました。
坂上田村麻呂は蝦夷討伐が取りやめになったため、活躍の場を失うこととなりましたが、征夷大将軍の称号は持ち続けたままであったとされています。
平城天皇の即位
延暦25年(806)3月17日、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位となりました。
この頃になると坂上田村麻呂は平城天皇の側近として重要されるようになり、大同2年(807)4月12日には右近衛大将に任命されます。
平城天皇の譲位と嵯峨天皇の誕生
大同4年(809)4月1日、平城天皇は以前から病気を患っていたため皇太弟・神野親王(後の嵯峨天皇)へ譲位し、奈良にある平城京へと移りました。
この頃、平城天皇から寵愛を受け事実上、権力を握っていた藤原薬子とその兄・藤原仲成は平城天皇が譲位すると、権力を失うこととなるため皇太弟・神野親王(後の嵯峨天皇)への譲位には反対していましたが、兄・平城上皇から譲位された弟・神野親王は即位し嵯峨天皇となります。
薬子の変
神野親王に譲位し上皇となった平城天皇でしたが、平城京に移るも未だ権力を握り続け、平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を発しました。
これに対し嵯峨天皇は一時平城京への遷都を受け入れ、坂上田村麻呂らを平城京造宮使に任命しましたが、考えを改め平城京への遷都を拒否します。
勝手に平城京遷都の詔を発した平城上皇に対し、嵯峨天皇は藤原仲成を佐渡権守に左遷、藤原薬子を宮中から追放という詔を発します。
これに対し、平城上皇は激怒し平城京から平安京に向かい挙兵してきたため、坂上田村麻呂は嵯峨天皇に命じられ平城上皇の挙兵を阻止しました。
平城上皇は坂上田村麻呂によって行く手が遮られたことを知ると平城京へと戻り剃髪し出家しました。
この一連の流れは薬子の変と呼ばれています。
坂上田村麻呂の晩年
晩年にあたる弘仁2年(811)1月20日には中納言・藤原葛野麻呂や参議・菅野真道らと共に国政に参加していまいたが、同年、5月23日に平安京粟田口(現在の京都市左京区)において病によって54歳で亡くなりました。
清水寺について
宝亀9年(778)、大和国興福寺の僧・賢心が「木津川の北流にある清泉を求めてよ」という夢のお告げを聞き、清流を求めたどり着いた場所が現在、清水寺のある音羽山でした。
そこには金色に輝く水が流れており、その源流をたどっていくと、そこには滝修業を行っていた行叡居士という僧がいたとされています。
200歳とされる行叡居士は賢心に千手観音像を刻むための霊木を授けると、「東国へ旅立つので、後を頼む。」と言い残し、姿を消します。
賢心は行叡居士の言う通りに、渡された霊木に千手観音像を掘り行叡の旧庵に安置しました。
その2年後の宝亀11年(780)、まだ征夷大将軍となる前の坂上田村麻呂は修行中の賢心に出会います。
この時、坂上田村麻呂は妻・高子の病気平癒のため鹿の生き血を求め音羽山に入っていたのでした。
しかし、賢心と出会ったことで聖なる場所で殺生をしようとしていたことを深く反省したとされ、自らの邸宅を仏殿として寄進します。
延暦17年(798)この仏殿を大規模に改築し本尊を祀りました。
これこそが清水寺の始まりとされています。
子孫
坂上田村麻呂は三善高子という女性を妻とし、2人の間には7人の子どもがいたとされています。
長男・大野
坂上田村麻呂の長男です。
父・坂上田村麻呂の後を継ぎ東北地方の経営に従事するも、若くして亡くなったため、坂上氏の家督は弟・広野が継ぐこととなりました。
次男・広野
坂上田村麻呂の次男です。
薬子の変では父・田村麻呂と共に嵯峨天皇側につきました。
酒の飲みすぎによって天長5年(828)に42歳で亡くなったとされています。
四男・浄野
神野親王(のち嵯峨天皇)が春宮に立てられた際、春宮少進として仕えたとされています。
嘉祥3年(850)62歳で亡くなりました。
五男・正野
従四位下・治部大輔の官位を与えられた人物です。
広雄
坂上田村麻呂の子供ですが、誕生年や没年など詳しいことは分かっていません。
高道
坂上田村麻呂の子供ですが、誕生年や没年など詳しいことは分かっていません。
春子
坂上田村麻呂の娘です。
桓武天皇の妃となり、2人間には葛井親王・春日内親王が誕生しました。
桓武天皇の崩御後は長寶寺を開いたとされています。
まとめ
坂上田村麻呂は平安時代、征夷大将軍となり蝦夷討伐に最も深く関わり、薬子の変においても平城上皇の挙兵を阻止した人物でした。
それだけではなく、今では観光客でにぎわう有名観光スポット、清水寺を建立した人物としても知られています。