平将門とは?平将門の乱や子孫、首塚や呪いについて解説!

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平将門は天皇家の血を継いだ平家の出身で桓武天皇の子孫にあたります。

かの有名な平将門の乱を起こし朝廷の支配から関東を独立させ、英雄として名を広げました。

一方、日本三大怨霊の1人として怨霊、呪い、祟りなどと恐れられ、平将門の首塚は祟りを起こす場所、呪われた場所として今では、心霊スポットまたパワースポットとされています。

そんな平将門の生涯、平将門の乱、子孫、首塚、呪いについて解説していきます。

平将門の生い立ち

平将門は平安時代中期にかけ活躍した武士で、正確な誕生年は分かっていません。

しかし、合戦中に飛んできた矢が平将門の額に命中し、討ち取られたのが38歳頃であると推測され、そこから誕生年は延喜3年(903年)または元慶8年(884年)頃とされています。

平将門は父・平良将とし、幼少期は母の出身地である下総国で育ったとされ、15歳から16歳頃には平安京へ上京しており、その頃から藤原忠平を主君としていました。

鎮守府将軍である父・平良将を持ち、自身は桓武天皇の子孫でありましたが、平安京での官位は低いものでした。

 

親族間での争い

父・平良将が亡くなってからは父・平良将の遺領を巡り親族間同士の争いを繰り返します。父・平良将は兄弟に平国香、平良兼、平良持、平良正、平良文がいました。

本来であれば、父・平良将が亡くなると、領地や遺産は長男である平将門に譲られますが、叔父にあたる平国香、平良兼、平良正によって独断で分割されてしまい、ここから平将門と叔父たちによる親族争いが始まりました。

承平5年(935)以来は叔父・平国香、平国香の息子・平貞盛、平良兼らと合戦を繰り返し、平将門の乱につながる原因の1つとして、この親族間での争いがあげられます。

 

平将門の妻をめぐる争い

平将門の妻をめぐる争いも平将門の乱の原因の1つにあげられます。

平将門は常陸の国の平安時代中期の武士、源護の3人の娘のうち、1人を妻にすることを望んでいましたが、源護の娘は、平国香、平良兼、平良正に嫁いでおり、妻にすることは叶わなかったため争いが始まったのではないかという説です。

あるいは平良兼の娘を妻としましたが、その娘を源護の三人の息子、源扶、源隆、源繁が横恋慕したため争いに発展したのではないかとも推測されています。

争いの始まりと将門の勝利

源護の息子である源扶、源隆、源繁は平国香、平良兼、平良正の娘と婚姻関係であったため、平国香、平良兼、平良正と源護は血縁関係で結ばれ、共闘関係にありました。

承平5年(935年)2月、源扶、源隆、源繁は平将門を待ち伏せし襲撃するも失敗に終わります。

平将門は逃げる源扶、源隆、源繁を源護の館のある常陸国真壁まで追いかけ、周囲の村を焼き払ったのちに源扶、源隆、源繁を討伐、さらに親族争いで揉めていた平国香の館の常陸国石田にも火をつけ平国香を討ち取りました。

 

襲撃後

平将門によって父・平国香を殺害された息子・平国盛は平安京で父の討死の知らせを受け急遽、帰郷します。

当時では珍しく、父・平国香が殺害されても平国盛は復讐することはなく和睦を平将門に求めました。その理由として平国盛は、平安京で官職についていたため、自らの立場を守るため和睦を求めたとされています。

一方、息子、源扶、源隆、源繁を討ち取られた源護は、平良正とともに平将門を襲撃するも、平将門の勝利に終わりました。

 

朝廷を味方につける

平国香が討ち取られた翌年、平良兼、平良正、平良盛の連合軍は平将門に攻め入り、それに対して平将門は100騎を率いて出陣し迎え撃ちます。

平良兼、平良正、平良盛らの連合軍は平将門の先手に攻めてかかりますが、平将門の本隊によって連合軍は総崩れになります。

しかしここで平将門は連合軍の討伐には至らず、あえて連合軍に逃げ道を与えたのです。

その理由として、連合軍が攻めてきたため、やむを得ず追い返したと自らの正当性を明らかにし、朝廷に訴えかけるためでした。

 

朝廷での裁判

平将門は承平5年(935年)2月に起こった平国香を討ち取った際、平良兼、平良正によって朝廷に訴えられていました。

平将門はこの裁判では不利な状況でしたが、翌年の平良兼、平良正、平良盛の連合軍が攻め入ったものの連合軍を逃がしたため、平将門は微罪で済みました。

朝廷での裁判の後も、平良兼らは平将門に攻め入りますが、天慶2年(939年)6月に平良兼が病死するとともに平将門の完全勝利に終わります。

 

平氏一門の争いの終結

親族同士の争いを経て関東で大きな力を得た平将門の名は知れ渡るようになりました。

天慶2年(939)2月、武蔵国へ新たに赴任した権守、興世王と介源経基が領地を巡って対立を起こすと平将門は両者の調停に乗り出し、和解させることを試みますが、武蔵武芝の不意討ちの包囲を受けた源経基は平安京へ逃げ帰ります。

その際、源経基は興世王、武蔵武芝、平将門が京都に謀反を起こそうとしていると告訴するのでした。

 

謀反の疑いをかけられる平将門

謀反の疑いをかけられた平将門でしたが無実無根と証明され、許しを得ます。

その後、新たに赴任してきた武蔵国守の百済貞連興と興世王が対立していたため、平将門を頼ってきた興世王の味方をし、実質的な支配権を拡大していきました。

 

平将門の乱のはじまり

平将門が朝廷に対する反逆行為とみなされる出来事が起こります。

天慶2年(939)、常陸国の住人の藤原玄明は受領と対立し、租税を納めておらず、また乱暴をはたらき、更に官物を強奪して国衙から追捕令が出されていました。

そんな藤原玄明は平将門を頼り、平将門は受領である藤原維幾が平貞盛らとの戦の際、平貞盛についていたことから藤原玄明を擁護します。

藤原玄明の引き渡しを藤原維幾が平将門に命じますが、それに応じず、同年11月、将門は兵1000人を率いて出陣し、合戦がはじまりました。

この戦でも平将門が勝利を飾り常盤国を支配するまでに至ります。

今までの親族での争いとは違い、この戦いでは不本意ながらも朝廷に対し反旗を翻す争いとなってしましました。

 

関東全域を統一へ

その後、平将門は興世王の勧めにより関東全域の支配を決意します。

関東八カ国の国府を次々に攻撃、国司を追放し、さらには自らを関東での新皇と称するまでに至ります。

この平将門のよる一連の行動は謀反として朝廷に報告されました。

 

平将門の最期

天慶3年(940年)、朝廷はこの謀反を行った平将門の追討令を発しました。

藤原忠文を征東大将軍に平将門の討伐に向かいますが、藤原忠文の軍が到着する前に藤原秀郷、平貞盛によって討たれ、平将門の人生は幕を閉じます。

こうして新皇と称し朝廷軍と戦をした一連の平将門の行動を平将門の乱と呼ばれるようになりました。

平将門の首塚

藤原秀郷、平貞盛によって命を絶たれた平将門の首は京都の七条河原町に晒されます。その際、何か月も目を見開き、歯ぎしりをしていたと恐れられていました。

ある夜、晒されていた平将門の首が突然、宙を舞い自らの胴体を求めて関東方面へと飛び去ったという恐ろしい逸話が残されています。

その後、宙を舞い胴体を探し求めた平将門の首は東京都千代田区大手町に落ちたとされ、そこには平将門の首塚が建てられました。

 

平将門の呪い

日本三大怨霊の1人として恐れられている平将門ですが、現在でも平将門の呪いだとされる逸話がいくつか残ります。

 

関東大震災により大蔵省庁舎が全焼

大正12年(1923)に起きた関東大震災では大手町の首塚付近に建てられていた大蔵省庁舎が全焼し、大蔵省の仮庁舎が建築のため首塚も含め取り壊されます。

その後、役人の多くが病気や怪我で苦しみ、首塚を取り壊したことによる平将門の呪いだと噂が流れました。

この平将門の呪いを恐れ大蔵省の仮庁舎を取り壊し首塚を新たに設置しますが、その後も大蔵省関係者が亡くなり、また大蔵省に落雷が落ち、2度目の炎上を大蔵省庁舎は受けてしまいます。

 

工事中による事故2人が死亡

終戦を迎えた昭和20年(1945)、米軍のGHQが焼け野が原であった首塚周辺に、駐車場を造る計画がなされました。

しかしその工事を行っていた際、ブルドーザーに乗っていた日本人2人が車体のバランスが崩れたためブルドーザーから転落し亡くなります。

この事故も平将門の呪いだと噂されるようになりました。

 

平将門の子孫とされる相馬氏

平将門の伝説は関東全域に残されていますが、その中でも千葉県柏市の旧相馬郡を支配していた相馬氏は平将門の子孫であると伝えられています。

相馬氏は日本の氏族の1つです。

「保元物語」では平将門は下総国相馬郡に都を建設し、自ら平親王と名のったと記述されてあり、相馬郡を支配していた相馬氏と平将門との関係は発展につながります。

当時、相馬氏の本家は千葉氏であったため、平将門は千葉氏との結びつきも誕生しました。

14世紀初頭成立された源平闘諍録の中には千葉氏の先祖にあたる平良文が平将門の養子に入ったと記述されています。

その後、千葉氏の一族として相馬御厨を支配した相馬氏が誕生し、将門の子孫としての相馬氏という位置づけがなされました。

 

さいごに

平将門は自らを新皇と称し、朝廷との対立を起こした平将門の乱で関東の英雄扱いを受けますが、その反面に日本三大怨霊と恐れられ、現在でも平将門の呪いを信じている人がいます。

しかし平将門の首塚は勝負運が向上するといったご利益があるようでパワースポットとも有名です。一度足を運んでみるものいいかもしれません。