伊達政宗とは?兜・刀・家紋、名言や子孫など生涯について解説!

伊達政宗は戦国武将として、仙台藩主として、また文化人としても生きた人です。

「あと10年早く生まれていれば天下を獲っていたかもしれない」とまでいわれた武将で、とても筆まめな一面があり、興味深い手紙などが多数残っています。

そんな伊達政宗に関して、兜、刀、家紋や名言、子孫などその生涯を簡単にご紹介したいと思います。

伊達政宗の生い立ち

伊達政宗は永禄10年(1567年)に生まれ、幼名を梵天丸(ぼんてんまる)と言います。

この頃、織田信長は33歳、羽柴(豊臣)秀吉は30歳、徳川家康は24歳で世の中は戦国時代真っ只中でした。

政宗は才気溢れる子供でしたが天然痘によって右目の視力を失い隻眼となりました。そのため後世で「独眼竜」と称されるようになります。

11歳で元服すると幼名の梵天丸から伊達藤次郎政宗と名乗るようになりました。

政宗という名は、伊達家中興の祖と言われる伊達家の9代目当主からとった名前で、父の輝宗が政宗にかけた期待の大きさがわかります。

 

初陣で大勝利

天正13年(1585年)8月、18歳の政宗は安達郡小浜城主大内備前定綱の支城である小手森城を攻め落とし、デビュー戦で勝利を飾ります。

このとき篭城する大内の親類・家臣をはじめ、女子供まで千百人以上の人を撫で斬り(皆殺しにすること)にし、犬まで惨殺したといいます。

大内定綱は小浜城を放棄して二本松城に逃亡、二本松城主の畠山義継は撫で斬りを恐れて降伏しますが政宗は許そうとしませんでした。

当時東北地方の合戦では、一方が一方を皆殺しにするまで戦うということはなく、第三者の仲介者をはさんだ上にほどほどで決着をつけるというのが習わしでした。

この戦いによって「小手森城の撫で斬り」として伊達政宗の名が奥羽諸国に知れ渡ることになります。

 

自らの強引さが招いた父の死

同年10月、投降を装った二本松城主・畠山義継の家臣が政宗の父・輝宗を拉致しました。

伊達家の軍勢は鉄砲を使って戦っていたので、義継らは輝宗を盾にしていれば自分たちに銃弾の攻撃は向かないと思ったのです。

しかし、政宗は苦渋の決断で家臣らに一斉射撃を命じ、畠山義継もろとも輝宗は死亡しました。

その後政宗は義継の遺体を切り刻んだ後に藤で縫い合わせ、磔にして小浜城下に晒します。

一方で父の遺骸は山形県の資福寺で手厚く葬りました。

政宗の強情さが原因?

このような事態になった原因として、正宗の強引さがあったからだといわれています。

畠山義継は領地の半分を差し出す条件で降伏を申し出ていましたが、政宗はこれを許しませんでした。

また義継は輝宗を通して、自分の命を差し出す代わりに家臣たちの命と生活の保障も嘆願していましたが、政宗はこれも拒否しました。

政宗の強い態度に追い詰められた義継がこのような行動に出たため、父輝宗の死を招くことになったのです。

領民からは「伊達の当主は二人もいらないから、一人始末したのか」という皮肉が書かれた落首も立てられてしまいました。

後年、政宗は自分の息子に「お家の大事の前には親をも捨てる覚悟が必要である」と説いていますが、家督を継いだばかりの18歳の伊達政宗にとって、この出来事は大きな痛手となりました。

 

関白・秀吉への屈服

奥羽の覇者となる

その後の政宗は合戦の日々でした。その中でも最大のライバルは鎌倉時代からの名門である会津の蘆名氏で、伊達家と並ぶ戦国大名の双璧でした。

天正17年(1589年)6月、伊達氏と蘆名氏は磐梯山の摺上原で激突し、両軍入り乱れて激戦となりましたが、伊達氏が大勝利し一日で決着がつきました。

家督を相続してから6年、伊達政宗は南奥羽の覇者となりましたが、正宗にとって会津は一時の居城に過ぎず、やはり関東への進撃を目指していました。

 

関白の壁

会津黒川城に入城した政宗に、関白である豊臣秀吉が立ちはだかります。

政宗が南奥羽の統一を成し遂げようとしていたとき、ちょうど秀吉も全国制覇の最終段階に来ていました。この頃正式に秀吉の臣下になっていない大名は、小田原の北条氏と、伊達政宗だけだったのです。

さらに、奥羽では秀吉の名前で「惣無事令」という個人的な戦いを禁じる命令が出ていました。

左記の伊達氏と蘆名氏との戦いは、この命令に反するものだったため、秀吉から政宗に次々と手紙が届きます。

内容は、政宗が至急上洛(京都へ行くこと)して秀吉に弁明するようにというものでしたが、正宗は簡単にこれに従えませんでした。なぜなら、上洛して秀吉に会うということは、秀吉の臣下になるということを意味していたからです。

しかし関白という立場の秀吉にそんなに強く出ることも出来ません。

とりあえず秀吉の側近である前田利家らに使者を送って情勢を探ると共に、今までも繋がりがあった小田原の北条氏の動きを見極めることにしました。

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小田原参陣へ

しかし天正18年(1590年)3月、秀吉が大軍を率いて小田原城を包囲する際、政宗もついに参陣を決意することになります。

この時は家臣たちと会議を重ね、秀吉軍と戦うか否かで意見が分かれました。当時の悩みに悩んでいる政宗の様子が側近への手紙からわかります。以下は手紙の内容の意訳になります。

『関白とのことさえ無事に済めばほかには何も心配することなどないのだが。もし何か行き違いなどがあれば切腹は免れないだろう。もちろん討死、切腹は望むところだが。只々明けても暮れてもこのことで頭がいっぱいである。』

出方に決めかねた政宗は、片倉景綱の屋敷を訪ねて寝どころにまで入って相談したと言います。

景綱は秀吉の大軍を夏に発生するハエに例え、撃退してもキリがないであろうと答え、更にこのまま重臣たちの意見がまとまらず伊達家が潰れるようなことがあっても、家臣たちはまた新しい主人を見つけて仕官するだけであろうとも答えました。

結局、政宗はこの景綱の意見を取り入れることにしました。

景綱も連れ50騎ほどの小隊で小田原へ向かい、また居城の黒川城には戦上手な伊達成実ら多くの家臣を残していざという時に備えました。

政宗は元々北条氏との連携を目指していましたが、この時点で北条氏の実力に見切りをつけていたようです。

 

秀吉との謁見

政宗が小田原に着いたのは同年6月5日、小田原城が落城する一ヶ月前でした。

秀吉はすぐに会おうとせず箱根の底倉という山の中に政宗を押し込め、浅野長吉らの側近を遣わせ、前年政宗が蘆名氏を滅した理由や小田原の参陣に遅れた理由などを厳しく問い詰めさせました。

政宗がその一つ一つに弁明し、ようやく秀吉への謁見を許されたのは6月9日でした。

政宗にとっては死をも覚悟して臨んだ謁見でしたが、予想に反して秀吉のもてなしは手厚いものでした。

この時の安心した様子が臨場感溢れる手紙に残っているため、紹介したいと思います。

『今日の午前10時頃に関白様(秀吉)の元に参りましたが、事が上手く運んだので何も言う事はありません。むしろ関白様には言葉に表せないほどの懇切丁寧なおもてなしを受けたことは、あなた方には想像もつかないことでしょう。(中略)この手紙は写しをとって、関係者各位に急ぎ送ってください。

追伸・忙しいので、送り先名簿を一緒に送りますね。この名簿に書かれた人に手紙の写しを送ってください。このほか色々もてなしを受けましたが、とても書面には書ききれません。』

危惧していた領地没収も黒川城と会津近辺が没収されるに止まり、助かった、と言う安心感と秀吉から丁重なもてなしを受けたことを早く家臣たちに知らせて安心させたいと言う気持ちが伝わる文章です。

 

秀吉による奥州平定

7月5日に小田原城が落城すると、秀吉は全国制覇の仕上げとして奥州を平定しました。

その月末に秀吉から拝領した具足を身に付けた伊達政宗が宇都宮で秀吉を出迎えていました。奇抜で華麗な、派手好みの秀吉らしい具足でした。

政宗は生涯この具足を大切にし、家宝として仙台伊達家に受け継がれるものとなったのです。

しかし愛用の具足を譲り受けるというのは臣従の証であったため、独立の大名として向上心を持っていた政宗にとっては複雑な気持ちだったのでしょう。

 

関ヶ原の戦い

人生の転機

秀吉に仕えていたころの政宗は朝鮮出兵を除けばほぼ京都で過ごしており、いつ終わるかわからない豊臣政権への宮仕えの日々は政宗にとって苦難の連続でした。

しかし将来の進路を模索しつつ、次の動きを考えることができる時期でもあり、その結論が徳川家康への接近と関係強化でした。

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が62歳で亡くなると、その翌年には政宗の長女・五郎八(いろは)姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させるなどして、政宗は素早く徳川との関係強化に動き出します。

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関ヶ原合戦の裏で活躍

慶長5年(1600年)9月の関ケ原合戦に政宗は直接参戦はしていませんが、奥羽にいて後方から家康を支援するという重要な役割を担っています。

石田三成に与した会津若松の上杉景勝を牽制するという役割を政宗が担っていましたが、この上杉景勝を奥羽に足止めする役目がなければ、家康があれほど関ヶ原で大勝できたかどうか疑わしいというほどの活躍でした。

 

「100万石のお墨付き」覚書を巡って

実はこの関ヶ原合戦の約一か月ほど前に、家康は七か所の領地49万5千石分を政宗に譲るという約束をしました。

この領地は豊臣秀吉によって没収されていた伊達家の旧領地だったため、是が非でも政宗が取り返したいものだったのです。

当時の政宗の領地と合わせると100万石を超える持ち分になるため、そのためならばと政宗はたいへん奮闘しました。

家康は覚書を書いてこの約束をしたため、「100万石のお墨付き」という通称で有名なエピソードとなっています。

 

空手形となった夢

覚書はあるものの、当時はいつ約束を反故にされるかわからない世の中でしたので、政宗は実力を以て領地を取り返さねばという意気込みがありました。

皮肉にもこの必要以上の政宗の張り切りによって約束が破られてしまいます。

政宗に100万石も与えてしまったらどうなるかわからないと家康が警戒したためです。

結局、政宗が自分で戦って取り戻した分の領地しか返ってきませんでした。

初代仙台藩主・62万石の領主としての夢

関ヶ原の戦いの後、政宗は京都の居城に代わる新しい居城の取り立てを家康に要求し、仙台市に城を構えました。

元々の地名は「千代」でしたが、唐時代の中国の詩「同題仙遊観」からとって「仙台」と改名しました。

仙台には仙人の住む高殿という意味があり、不老不死の仙人が住む理想的な世界を象徴しています。政宗はこの地名に永遠の繁栄という願いを込めました。

また中国古代の聖王が理想とした「民安く国泰し(民も国も安泰である)」の国づくりをモットーに政治を進めることになります。

 

夢と現実

しかし政宗の膨大な家臣を養いながら、いかに国を豊かにするのかという厳しい現実が待ち構えていました。

その解決のために打ち出したのが、以下の3つの政策です。

 

①新田開発

領内の荒れ地・湿地の開発を農民だけでなく武士にも奨励するもの。

開発した土地は、その開発をした武士に知行地として与えるという画期的な政策。

 

②河川改修

上北川やその支流を改修して、灌漑工事を進めるもの。新田開発が前提にあった。

 

③江戸廻米(かいまい)

領内でとれた米を船で江戸に送り、藩の財政を潤すもの。

人口急増の江戸に目を付け、仙台藩を江戸の食糧供給地にしようという政策。

 

以上の政策を推進して国を発展させていきました。

 

優れた国際感覚

ヨーロッパへの使節派遣

伊達政宗は広く海外にも目を向けていた武将としてもよく知られています。

家臣の支倉六右衛門常長を大使としてヨーロッパへ派遣させており、この時代自分の家臣を自分の建造した船で派遣した大名は政宗以外にいないといわれています。

その目的は、当時世界的に一番強国であったスペインの王とローマ教皇に対し、スペインの植民地であったメキシコとの貿易と宣教師派遣の要請でした。

 

叶わなかった計画

当時徳川幕府も早くからメキシコ貿易には興味を持っていましたが、家康は商売を歓迎しつつもキリスト教布教は望まないという外交を一貫して持っていました。(秀吉の時代から宣教師たちとの間に色々トラブルがあったのです)

幕府は布教と貿易を一体とするスペインとの交渉は進まず、布教にこだわらないイギリスやオランダなどのプロテスタント国に関心が移っていきました。

使節が帰国したのは7年後になりましたが、結局この幕府の政策のためにスペイン国王やローマ教皇との交渉は上手くいきませんでした。

その後、徳川幕府は禁教や鎖国を進めていくことになります。

 

晩年と辞世の句

政宗の晩年は地元・仙台の開発や繁栄のために力を入れました。

寛永13年(1636年)4月18日、江戸への参勤交代へ出発すると政宗は体調が悪化し、何とか江戸入りをしますが5月24日に亡くなりました。

享年70歳、胃がんあるいは食道がんだったのではないかという説があります。

辞世の句は「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 晴れてこそゆけ」

戦国の世の暗闇を、心の中にある月明かりを頼りに道を進んだ、自分が信じた道をただひたすらに歩んだ人生だったと残しています。

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兜について

おしゃれな人を「伊達者(だてもの)」と言うのは、伊達政宗の一歩進んだファッションセンスに由来していると言われています。

着用していた兜も、大きなアシンメトリーの三日月の前立てがついた黒兜で、シンプルながらとても印象的なものでした。

因みにこの兜にすると決めたのは政宗の父、輝宗だったと言われています。輝宗は政宗の旗印を日の丸のような太陽を現した形にしたため、兜を月の形にしたようです。

太陽は仏教の世界では金剛界、月は胎蔵界を表すといい、この世の理を表す曼荼羅の種類に因んでいます。

輝宗が息子の成功と無事を祈ってこの前立てにしたのでしょう。父の想いが篭ったこの兜は辞世の句に詠んだ「心の月」となったのでしょうか。

 

刀について

刀コレクターだった政宗

伊達軍の戦と言えば銃のイメージが強いですが、伊達政宗は国包(くにかね)というお抱えの刀鍛冶を育成するほどの刀好きでした。

黒ん坊切景秀、振分け髪正宗(正宗というが新刀とされる)、太鼓鐘貞宗、大倶利伽羅広光(伝相州廣光)、鎺国行、亘理来国光、鎬藤四朗吉光、燭台切り忠光、別所貞宗、牛王吉光など沢山の刀を持っていたようです。

本稿では特に有名な物を2つ紹介します。

 

燭台切り忠光

政宗が不行状な小姓を斬った際、側にあった燭台も一緒に切れたという恐ろしい切れ味の刀です。

備前の刀工集団長船派の光忠によってつくられたとされており、刃長・二尺二寸三厘(約78㎝)の美しい刀です。

 

黒ん坊切景秀

慶長の変の朝鮮出兵で政宗が使ったと言われる刀で、その際に猿を斬ったことからこの名前がつきました。

政宗の重臣石川昭光から献上されたもので、備前長船派景秀の作、刃長・二尺四寸一分(約73㎝)、政宗が持つ刀の中でも最高傑作の名刀と言われています。

 

家紋について

伊達政宗はなんと8つの家紋をもち、場合に応じて使い分けていました。

その中から有名なものを3つ紹介したいと思います。

 

①仙台笹

政宗の家紋として一番有名なものです。

政宗の大叔父である伊達実元が越後の上杉氏の養子になる話がでたので、引き出物として「竹に雀」という家紋を譲り受けました。それを更に繊細で複雑な形にしたものがこの仙台笹です。

伊達実元の養子の話はなくなったそうですが、この家紋は伊達家で大事に使われました。

 

②三つ引き両紋

伊達家の一世である伊達朝宗が藤原討伐の褒美として源頼朝から賜ったという非常に由緒ある家紋です。

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③九曜紋

真ん中に大きな丸があり、それを小さな丸で囲むような形で星を表した家紋です。

元々、細川忠興が使っていた家紋ですが、着物のデザインなどでも星を好んでいた政宗が「自分も使いたい」と言い出して使い始めたそうです。

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名言について

料理へのこだわり

政宗は食に対してこだわりが強く、「ずんだ餅」「凍み豆腐」などを発明したという説まであります。

そんな政宗はもてなしについてこのようなことを言っています。

かりそめにも人に振舞ふとあらば、料理第一と心得よ 

かりそめにでもおもてなしをするときは、心の篭った料理が一番だと言っています。

他にも料理についてはこのようなことも言っています。

馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である 
朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし 

 

戦いの経験から

政宗の波乱に満ちた人生を物語る名言があります。

朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし 

【意味】優しすぎると弱くなる、正義にこだわり過ぎると頑固になる、礼儀のことを考え過ぎると失礼になる、頭が良くなり過ぎると嘘をつく、人を信じ過ぎると損をする。

 

酒癖の悪さは天下一だった?

政宗は美食を愛し、酒も好むと言う一面もありました。しかし、過ぎることもしばしばでお酒に関するエピソードは事欠かないそうです。

ある時酔った勢いで家臣の頭を脇差の鞘で殴り、後で謝っている手紙が残っています。

「脇差の鞘を当てたことは某の間違いであった。頭の疵(きず)が治ったらまた召し使う故、出てくるよう伝えよ。」

飲み過ぎを指摘されてカッとなったものの、酔いが醒めて「俺が悪かった」と正直に反省しているところが面白いですね。

その他にも二日酔いで「頭が起き上がらない」という手紙を娘に送ったり、家臣へ達筆で遊び心たっぷりの飲み会のお知らせを送ったりと、人間らしい部分が垣間見えるところも伊達政宗の魅力の一つと言えるでしょう。

 

子孫について

伊達家は今も続いており、現在は18代目の伊達泰宗さんが跡を継いでいます。

歴史の専門家で学芸員の資格なども持ち、伊達家に関係する歴史的遺産の修復なども手がけているそうです。

1994年に断絶していた浅野家と和解をしたことで有名になりました。

またお笑い芸人サンドウィッチマンの伊達みきおさんも伊達家分家の血筋だと言われています。