島津義弘とは?戦国最強説や関ヶ原での活躍、名言などについて解説!

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島津義弘は薩摩国で活躍した武将です。

「鬼島津」の異名で知られる島津義弘は戦国最強の武士と言われることの多い武将でした。

そんな島津義弘の生涯や名言、また関ヶ原の戦いでの活躍、戦国最強説を解説していきます。

生い立ち

島津義弘は天文4年(1535)7月23日に、島津貴久の次男として誕生しました。

天文23年(1554)に迎えた岩剣城での戦いは島津義弘にとって初陣となります。

弘治3年(1557)には大隅国の蒲生氏に攻め込み、初めて敵の首級を挙げました。この戦で島津義弘は5本の矢を受け重傷を負いました。

永禄9年(1566)島津義弘は日向国の伊東義祐が居城であった飯野城攻略のため三ツ山城を建設しているという情報を耳にします。

この情報を知ると島津義弘は兄・島津義久と弟・島津歳久とともに伊東義祐に攻撃を仕掛けますが島津義弘は重症を負い、撤退を余儀なくされました。

 

勢力の拡大

その後、兄・島津義久が家督を継ぐこととなります。

島津義弘は、家督を継いだ兄の補佐となり、木津川の戦いや耳川の戦いに参加し、勢力を広げていきました。

天正13年(1585)に肥田国の守護代として阿蘇氏を降伏させると、天正14年(1586)には豊後の大友領を侵攻し始めます。

 

根白坂の戦い

天正15年(1587)そんな島津の侵攻を受けた大友氏は豊臣秀吉に援護を要請し、大友氏から援助要請を受けた豊臣秀吉の九州平定軍と大友軍との根白坂の戦いがはじまりました。

この戦では島津軍は九州平定軍の兵力に及ばず、敗北となります。

戦で敗北となり兄・島津義久が降伏宣言をするも、島津義弘は徹底抗戦を主張したとされています。

結局、兄・島津義久に説得され自らの子である島津久保を人質として差し出し、木食応其の仲介のもと降伏しました。

 

上洛

天正16年(1588)に上洛した際は、豊臣秀吉から羽柴の名字と豊臣の本姓が島津義弘に与えられたとされています。

 

豊臣秀吉の政権下

豊臣秀吉の政権下にはいると島津義弘は豊臣政権に対して協力的な姿勢が見られます。

天正20年(1592)から始まった文禄の役では藤堂高虎に率いる水軍と連携し朝鮮水軍を撃退し敵将の元均を討ち取りました。

慶長2年(1597)からの慶長の役にも島津義弘は参加します。

泗川の戦いの際、董一元の率いる明、朝鮮の連合軍を寡兵で打ち破ったと残されました。

この戦いで明、朝鮮の連合軍は37000前後の兵力であったのに対して島津軍は7000の兵力であったとされ、この戦を機に島津義弘及び島津家の軍事能力に高い評価が付けられ、のちの戦国最強説に繋がりをもたらします。

この一連の戦から島津義弘は「鬼石曼子」と朝鮮軍から恐れられていたようです。

 

秀吉没後

豊臣秀吉の亡き後、島津家では薩摩本国の反豊臣派の兄・島津義久と親豊臣派で中立的な立場にいた島津義弘が対立を起こします。

島津義弘には本国を動かせるほどの権力はなかったため関ヶ原の戦い前後に起きた戦いにおいて少数の兵力しか持つことができませんでした。

 

会津征伐

慶長5年(1600)に徳川家康が会津にいる上杉景勝の討伐を起こすと、島津義弘は徳川家康からの要請で徳川家康の家臣・鳥居元忠の待つ伏見城へと援軍に向かいます。

しかし、鳥居元忠は徳川家康に島津義弘の援軍を頼んだ覚えはないとし、島津義弘の入城を拒否しました。

敵勢約4万人の中、孤立した島津義弘はこの事を機に、関ヶ原の戦いにおいて西軍につくことを決意したとされています。

関ヶ原の戦い

西軍についた島津義弘でしたが、わずかな兵力であったため石田三成から美濃墨俣での撤退において見捨てられたり、作戦会議の際、島津義弘が提案した夜襲策を不採用とされ、軽視された存在であったようです。

関ヶ原の戦いに島津義弘は参戦したものの戦場で兵を動かしたという記録は残されていません。

石田三成は家臣の八十島助左衛門を使者として島津義弘に援護要請を行うも、陪臣の八十島助左衛門が下馬せず救援を依頼したため、これを拒否したとされます。

戦いが進むと、西軍であった小早川秀秋が東軍に寝返り、石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊が総崩れとなりました。

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島津義弘は退路を遮られ敵勢の中で孤立となり切腹を試みますが、甥・島津豊久の説得を受けると撤退することを決意し、前方の敵の大軍を突破し正面の伊勢街道からの撤退を試みます。

 

関ヶ原の戦いからの撤退

旗指物、合印などを捨てた撤廃を決意した島津軍は東軍である福島正則軍の突破を試みます。

この島津軍の撤退に井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃を行ったそうです。

徳川軍の執拗に追撃に島津軍は足止め隊を残すといった戦法を用い、この戦法によって島津義弘の身代わりになった者が多く、中には甥・島津豊久や家老・長寿院盛淳が含まれていました。

 

撤退の成功、妻の救出

多くの犠牲を出しながらも敵軍突破を果たした島津義弘は大和三輪山平等寺に逃げ込んだ後、摂津国住吉に逃れていた妻を救出し薩摩に帰還することを試みます。

この際、家臣たちは島津義弘に対し一刻も早く薩摩に帰還することを進めたそうです。

しかし愛妻家であった島津義弘は「大坂城で人質になっている者を捨て、どの面下げて国に帰ることができようか」と述べ妻と子供の救出に向かったと逸話が残されています。

この撤退で生き残った者は300人のうちわずか80人でした。

この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれるようになり、全国に名を轟かせます。

 

関ヶ原の戦いからの撤退後

薩摩へと帰還を果たした島津義弘は徳川との和平交渉を進めます。

この和平交渉の仲介役には、退却戦の際に負傷を負わせた井伊直政が島津義弘によって指名されました。

慶長5年(1600)9月に徳川家康は出頭要請を拒み続けた島津義弘に対して、島津討伐軍を構成します。

3万人の兵力で島津の討伐に向かわせるも島津軍には1万の兵力があり、島津義弘も健在であったことから徳川家康は長期戦を避けるため攻撃の命令を出せずにしました。

また薩摩沖で幕府が行っていた明との貿易船2隻が攻撃され沈没するといった事件も起き同年11月には島津討伐軍に撤退命令が出されます。

このような徳川との対立もありましたが、徳川家康は島津家に対して処分を下すといったことはなく、島津義弘に対しても徳川家康と兄・島津義久が交流を持っていたため処分はなされませんでした。

 

島津義弘の最期

晩年は大隅の加治木に隠居し、その際、若者たちの教育を行っていたとされています。

元和5年(1619)7月に85歳で亡くなりました。

この時、家臣13名が島津義弘の後を追って殉職したそうです。

戦国最強説

島津義弘はこれまでの戦歴から戦国最強の武士とされています。

戦国最強とされる島津義弘ですが、一体どのようなことから戦国最強とされるようになったのでしょうか。

 

木崎原の戦い

元亀3年(1572)におきた木崎原の戦いでは3000の兵力をもつ伊東義祐に対し、島津義弘は300の寡兵で奇襲を行いました。

わずかな寡兵で勝利し、全国に島津の名を広めます。

またこの戦いの際、島津義弘は体に5本の矢が刺さりながらも戦い続け日州一の槍突きとされる柚木崎正を討ち取ったと記録に残されました。

 

朝鮮出兵

豊臣秀吉による朝鮮出兵に参加した島津義弘は37000前後の明、朝鮮の連合軍に対し7000の兵力で対抗しました。

このわずかな兵力で勝利した島津義弘を朝鮮軍は「鬼石曼子」と呼び恐れたとされています。

 

関ヶ原の戦いでの撤退劇

関ヶ原の戦いに臨んだ島津義弘でしたが周囲を敵に囲まれ撤退を余儀なくされます。

この撤退には多くの犠牲を出したものの、徳川軍の井伊直政と本多忠勝に負傷を負わせ薩摩への帰還を果たしました。

 

戦国最強

島津義弘は少ない兵力でありながらも、大軍に挑み勝利を収め「鬼島津」「鬼石曼子」と恐れられてきました。

これらのことから島津義弘は戦国最強であったとされています。

 

名言

名言①

名言①
老武士のため、伊吹山の大山を越え難し。たとえ討たれるといえども、敵に向かって死すべしと思う

これは関ヶ原の戦いで敵に四方を囲まれ撤退を決意したときに述べられた言葉とされています。

敵に背中を向けて討死となるよりも、どうせ死ぬのであれば敵に一矢を報い死にたいという意味が込められました。

 

名言②

名言②
春秋の紅葉はついに留まらず 人も虚しき関路なりけり

これは、島津義弘の辞世の歌です。

春の花や秋の紅葉もとどまることを知らないで散ってしまう、私も虚しく散ってしまったという意味が込められました。

 

最後に

島津義弘は少ない兵力でありながらも数々の戦で勝利を収めてきた人物でした。

これまでの戦歴から「鬼島津」と恐れられて戦国最強とされてきましたが、一方で愛妻家でもあり人情味溢れる人物であったとされています。

亡くなってもなお家臣たちが島津義弘の後追いし殉職したということから、島津義弘が人情味溢れる性格の持ち主であったことが分かります。