徳川慶喜の子孫の現在は?家系図などをもとに解説!

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江戸幕府最後の征夷大将軍となった徳川慶喜は、歴史ファンのみならず、誰もが知る有名人の一人になります。

第15代将軍に任命されたのは、慶応2年12月5日。明治天皇に政権を返上した大政奉還を行われたのが慶応3年10月14日。わずか1年足らずの短い将軍でしたが、その中身は、15人の将軍の中では、初代家康に次ぐ目まぐるしさをもつ将軍だったのではないでしょうか。

徳川慶喜が大政奉還後、子孫とともに静岡県に移り住んだことは有名ですが、その静岡を離れた後は東京巣鴨、小石川小日向第六天町へと移動します。

小石川の土地の広さは3000坪、家屋1000坪という豪邸に住民50人という大所帯で、大正2年、77歳で亡くなる時まで仲良く暮らしていたとのことです。慶喜の子孫の現在、家系図は、どのようになっているのでしょうか。

慶喜の子孫は何人?

徳川慶喜の正室は、今出川公久の娘である一条美賀子なります。彼女が産んだ子どもは早くに夭逝し、その後は一人も生まれておりません。

慶喜には総勢24人の子どもがいますが、幼くして夭逝した子どももおり、成人したのは6男8女になります。ちなみに、慶喜には3名の側室がおりますが、子供を産んだ女性は、新村信、中根幸の2名になります。

 

新村信との間にできた子孫

側室・新村信が産んだ子どものうち、長男・敬事、六男・斉、六女・良子の3名は夭逝しておりますが、長女・鏡子、三女・鉄子、五男・仲博、九女・経子、七男・慶久、十一女・英子、十男・精の合計7名が成人しています。

 

第一銀行取締役・徳川慶久(よしひさ)

彼女が産んだ子どもの中で、もっとも有名な子どもは、けいきゅう様と呼ばれた七男の徳川慶久になります。宮川喜久蔵、黒田幸兵衛のもとで育てられた彼は、徳川慶喜の跡を継ぐ際、久(ひさし)から慶久へと名を改めています。

有栖川宮威仁親王の王女實枝子と結婚した後、貴族院議員となり、現みずほ銀行の前身である第一銀行取締役、華族世襲財産審議会議長等を歴任し、大正11年、37歳という若さで亡くなっています。

 

陸軍軍人・徳川慶光(よしみつ)

慶久が亡くなった後を継いだのが、その時わずか10歳だった長男・徳川慶光です。慶光は官僚、陸軍軍人としての生涯を送りました。

慶光には3名の子どもがおり、長女安喜子は深川行郎夫人、次女眞佐子は政治家である平沼赳夫夫人、末っ子の長男・徳川慶朝は写真家として活躍しています。

ちなみに、この慶朝の跡を継ぐ者がいなかったために、慶喜の直系は2017年、慶朝が亡くなり断絶となります。

 

勝海舟の娘と結婚・勝精(かつくわし)

続いては、勝海舟の娘と結婚し、婿養子となった十男・精(くわし)になります。

明治32年1月20日、わずか11歳の精は、勝海舟の娘である伊代子の婿養子になるべく勝家に入り、海舟の死去後、勝家を相続します。

学習院大学初等学科から慶応義塾大学へ転校し同校を卒業した彼は、オリエンタル写真工業、浅野セメント等に勤めた後、昭和7年、43歳の若さで亡くなります。

中根幸との間にできた子孫

続いて、もう一人の側室である中根幸が産んだ子どもについてですが、次男・善事、三男・琢磨、次女・金子、五女・脩子、八男・寧は夭逝、2名を死産しています。

成人したのは、四男・厚、四女・筆子、七女・浪子、八女・国子、十女・糸子、九男・誠の6名になります。

 

松平春嶽の次女と結婚・德川厚(あつし)

四男の德川厚は、長男、次男、三男が亡くなっていたこともあり、事実上の跡継ぎとして育ち、21歳の時に松平春嶽の次女・里子と結婚します。貴族院議員として活躍した後は、長男・喜翰に家督を譲り、隠居しています。

 

徳川誠(まこと)

九男・誠は学習院中等学科を卒業した後、アメリカへ留学します。帰国後は横浜正金銀行、浅野セメント監査役に勤め、貴族院議員として活躍します。

 

家系図について

最後の将軍・徳川慶喜の家系図は、どうなっているのでしょうか。

まず、慶喜は、明治維新後、徳川宗家を徳川家達に譲っています。ですので、徳川慶喜家は四男・厚が宗家分家として家督を継ぎます。その後は、長男・喜翰がその跡を継ぎますが、喜翰には子どもがいませんので、厚の五男である喜堅を養子に迎え、その後は喜寿、喜秀と続きます。

五男・博は、従兄の池田輝知が跡継ぎなく死去したことから、池田家へ養子に入り、侯爵家を相続します。名を池田仲博と改め、北海道に農場開設後は、貴族院議員として活躍します。

慶喜の七男・慶久の家系は、長男慶光、慶光の長男の慶朝と続きますが、その後は跡継ぎがおらず、家は断絶となります。ちなみに、慶光のすぐ上の姉は、高松宮宣仁親王の妃となった喜久子になります。

九男・誠の家系は、長男、次男の2名の男子がおりますが、長男・熙は、のちの太平洋戦争にて戦死しています。次男脩は日本銀行に勤務し、その息子・康久は、2013年より靖国神社の宮司を勤めています。

十男・精は、勝海舟の家へ婿養子に入り、勝家は、長男である芳孝が継いでいます。

続いて、女性ですが、まず、慶喜の四女・筆子は、蜂須賀正韶と結婚し、長女・年子、長男・正を授かります。

九女・経子は、華頂宮博恭王と結婚し、博義王、恭子女王、博忠王、博信王、敦子女王、知子女王、博英王の四王子、三王女を授かっています。

 

尾張徳川家の現在・徳川義崇氏

最後に、徳川御三家の一つ尾張徳川家の現在についてですが、現在の当主は22代当主・徳川義崇氏になります。公益財団法人徳川黎明会会長、名古屋徳川美術館館長、名古屋市博物館協議会委員、全国美術館会議副会長を歴任されています。

 

紀州徳川家の現在・徳川宜子氏

紀州徳川家は、現在の当主は徳川宜子氏ですが、彼女には子どもがおりませんので、このままでは、断絶の可能性があります。