踏み絵とは?意味や時代、効果や絵踏みとの違いについて解説!

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踏み絵とは江戸幕府がキリスト教の信仰を禁じて際、キリスト教徒を発見するために用いられた絵です。

この絵は「踏み絵」と呼ばれイエス・キリストやキリストの生母・マリアが描かれており、この絵を踏ませることによってキリシタンかどうかを見極めていました。

「踏み絵」を踏ませキリシタンかどうかを見極める手法方法は「絵踏み」と呼ばれています。

そんな踏み絵の意味や行われていた時代、効果や「絵踏み」との違いについて解説していきます。

踏み絵の意味

踏み絵とはイエス・キリストやイエス・キリストの生母であるマリアが描かれた絵です。

この絵は「踏み絵」と呼ばれ、江戸幕府が禁じていたキリスト教を信仰しているキリシタンに踏ませ、キリシタンかどうかを見極めていました。

当初、紙にイエス・キリストやイエス・キリストの生母であるマリアが描かれていましたが、多くの人に踏まれるため損傷が激しく、木製や金属製の板に掘られるようになったとされています。

 

「踏み絵」と「絵踏み」の違い

「踏み絵」とはイエス・キリストやイエス・キリストの生母であるマリアが描かれた絵のことで、「絵踏み」とは「踏み絵」を踏ませキリシタンかどうかを見極める手法方法のことを意味しています。

 

絵踏みが行われた期間

絵踏みが初めて行われたのは寛永6年(1629年)、絵踏みの制度が終わりを迎えたのは安政5(1858年)とされています。

絵踏み制度の開始と廃止

キリスト教弾圧までの経緯

天文18年(1589年)宣教師フランシスコ・ザビエルが来航したことによって日本でキリスト教が広まるようになりました。

フランシスコ・ザビエルが日本でキリスト教を普及するようになると、瞬く間にキリスト教徒は増え始めます。

しかし、これに危機感を覚えた豊臣秀吉は天正15年(1587年)キリスト教宣教の制限を設けた条例を出しました。

その後もバテレン追放令を発するなど、キリスト教の弾圧は威力を見せはじめます。

豊臣秀吉亡き後も慶長17年(1612年)には徳川家康によってキリシタン禁令が発令され、元和5年(1619年)には徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置などが行われてきました。

 

絵踏みの実施

その後も様々なキリスト教の弾圧が行われてきましたが、それだけではキリスト教徒は減少しなかったため、江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代の時代に江戸幕府はイエスキリストや生母マリアが描かれた「踏み絵」を踏ませることによってキリシタンかどうかを見極めるようになりました。

 

鎖国と開国

江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代では「絵踏み」の実施だけではなく、キリスト教国人を収容するための出島を建設し、完成次第、出島にキリスト教国人を収容するなど、日本人とキリスト教国人との接点はなくなっていきます。

その後、日本は完全に鎖国状態となりましたが、嘉永6年(1853年)マシュー・ペリーが開国を要求し、それを受けた日本は翌年「日米和親条約」を締結し長く続いた鎖国に終わりを迎え始めました。

 

踏み絵の制度は完全な廃止

安政3年(1856年)4月13日には、長崎・下田などの開港地で絵踏みの制度は廃止されたとされ、安政5(1858年)日米修好通商条約を締結したことによって日本は鎖国を終えることとなり、踏み絵の制度は完全に廃止されるようになりました。

つまり「絵踏み」が行われていた期間は約200年ということとなります。

 

明治維新後もキリスト教弾圧は続いた

踏み絵の制度が廃止されても、明治維新後もキリスト教の弾圧は続いていたとされ、明治元年(1868年)には明治政府によって発令された禁止令である五榜の掲示の中には、キリスト教の禁止が含まれていました。

しかし、明治6年(1873年)に五榜の掲示が撤去されたことによって日本におけるキリスト教の弾圧は完全に終わりを迎えることとなりました。

効果

「踏み絵」を踏んだ者はキリスト教徒ではないことを意味し、「踏み絵」を踏むことを拒んだ者はキリスト教徒であるとされ、逮捕され次第、処罰されることとなりました。

「絵踏み」が行われた当初は効果があったものの、次第に心の中でキリスト教を信仰すればよいといった考えが広まるようになり、役人の前で「踏み絵」を堂々と踏みながらも、密かにキリスト教を信仰する「隠れキリシタン」が現れるようになります。

安政5(1858年)日米修好通商条約の締結によって踏み絵の制度は廃止されるようになりますが、踏み絵の制度が廃止されるまでの間に「隠れキリシタン」が出現したことによって絵踏みの効果は弱まっていくこととなりました。

 

まとめ

江戸幕府はイエス・キリストやイエス・キリストの生母であるマリアが描かれた「踏み絵」を踏ませ、キリスト教徒かどうかを見極めていました。

この「踏み絵」を踏ませキリシタンかどうかを見極める手法方法のことは「絵踏み」と呼ばれています。

「絵踏み」が実施されていた当初は、「絵踏み」の効果はあったものの、次第に心の中でキリスト教を信仰すればよいといった考えが広まるようになり、役人の前で「踏み絵」を堂々と踏みながらも、密かにキリスト教を信仰する「隠れキリシタン」が現れるようになりました。

この頃から「絵踏み」の効果はあまりなかったとされています。

寛永6年(1629年)に始まった「絵踏み」は日米修好通商条約が締結された安政5(1858年)に廃止されることとなりました。