2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」にも登場する播磨屋足袋店の店主・黒坂辛作は、金栗四三と出会い、オリンピックでの成功を目指して、金栗足袋やカナグリシューズの開発に取り組みました。
その開発経緯や黒坂の生涯について解説します。
黒坂辛作とは?
1881年、兵庫県生まれ。21歳の時に上京し、文京区大塚に「播磨屋(ハリマヤ)足袋店」を構えます。
30代の時、学生の金栗四三と出会い、金栗足袋を作成。
その後、日本で初めてのマラソンシューズ・カナグリシューズを作りました。
播磨屋足袋店
播磨屋(ハリマヤ)足袋店の裏手には、東京高等師範学校(現在の筑波大学)があり、たびたび注文を受けていました。
東京師範学校の校長は柔道の創始者・嘉納治五郎で、スポーツが若者の精神と体の形成に良い影響を及ぼすと考え、学生のスポーツを奨励します。
学生たちに放課後の部活動をさせ、年に2回は長距離走大会を開いていました。
そして当時はスポーツシューズなど存在せず、普通の足袋を運動時に履いていたため、師範学校から近い播磨屋足袋店は大会ごとに注文を受けるなど、師範学校の学生御用達の店でした。
開発のきっかけ
一回の使用でボロボロに
こうした背景があり、師範学校の学生で徒歩部だった金栗四三も播磨屋足袋店の足袋を履いていました。
金栗は、オリンピック予選会でいつも通り足袋を履いて走ったところ、折り返し地点で足袋が破れてしまいます。
ゴールした時にはかかとに大きな血豆ができて数日は歩けない状態になってしまいした。
開発を引き受ける
予選会後、金栗は翌年のオリンピック出場に向けて特訓を受けることになりました。
陸上の知識があまりなかったため、アメリカ大使館員をコーチに週一回の指導を受けることになります。
そのなかで日に20mもの距離を走り、2、3日で足袋に穴が開いてしまう状況になりました。
最初は自分で針と糸を持って繕っていた金栗でしたが、ついに黒坂に「やぶれにくい足袋を作ってほしい」と開発を依頼します。
マラソン足袋
金栗の要望を受けて黒坂は、底を3重にした足袋を作成し、「マラソン足袋」と名付けます。
しかし、底を厚くしただけの布の足袋では、ストックホルムの道路に太刀打ちできませんでした。
黒坂は、日本のような未舗装の道路を想定して足袋を作っていましたが、ストックホルムの道路は石畳や舗装路だったのです。
布を重ねただけでは衝撃を吸収できず、金栗はストックホルムでの練習中にひざを痛め、足袋も破れてしまいました。
金栗足袋の開発
耐久性を求めて試行錯誤
黒坂と金栗は、4年後のオリンピックを目標に、二人三脚で改良を加えていきます。
黒坂は改良した足袋を金栗に履かせて、感想を聞きその都度改良していきました。
聞き取りの結果、足袋特有のこはぜを辞めて、靴のように紐でしばるかたちに変更し、足首まであった長さも動かしやすいようにくるぶしまでに変更しました。
さらにオリンピックでほかの選手のシューズを見てきたこともあり、耐久性を高めるために足袋にゴムを張ることにします。
しかし、雨の日の滑りやすさに気づいた黒坂は、板ゴムを削って凸凹を付けました。
金栗足袋の完成
1919年、二人はついに完成したゴム底の足袋の耐久実験を行います。
金栗は20日かけて下関〜東京間1200kmを走破しますが、なんと足袋は全く破れていませんでした。
黒坂はこうして完成した足袋を金栗の名前を取って「金栗足袋」と名付け、大々的に売りします。
するとたちまちロングセラーになりました。
その後の金栗足袋
その後、金栗以外の選手も金栗足袋を履くようになり、すばらしい成績を叩き出します。
1936年のベルリンオリンピックでは、孫基禎が金栗足袋を履いて金メダルを獲得しました。
第二次世界大戦による中断をはさみ、1951年のボストンオリンピックでも田中茂樹が金栗足袋を履いて優勝します。
カナグリシューズ
金栗足袋を履いた選手がオリンピックで優勝した後もシューズ開発は続きました。
金栗足袋は先の丸いシューズ型へと改良され、カナグリシューズと名付けられます。
指が分かれているために力が分散し、地面を蹴る力が減少すると考えたため、ついに足袋の名残である股割れをなくしました。
日本初のランニングシューズ
しかし基本的な構造は金栗足袋のままでした。
ほかのシューズとは異なり、足を包み込むように袋状にしたアッパーに靴底をつけていたので、靴下を履いているようなフィット感があったそうです。
こうして完成したカナグリシューズは、日本のランニングシューズ第一号となりました。
なお、このころには播磨屋足袋店は、シューズ以外の運動用品も扱うようになり、ハリマヤ運動用品と名前を改めます。
大記録の達成
1953年のボストンマラソンでは、金栗の弟子にあたる山田敬蔵がカナグリシューズを履いて出場し、2時間18分51秒という大会新記録で見事に優勝します。
この記録は世界的な新記録でもありました。
この時、二人が知り合ってから40年以上が経過し、黒坂は73歳、金栗は62歳になっていました。
金栗足袋にまつわる逸話
1951年のボストンオリンピックで田中の履いていた金栗足袋が記者の間で話題になり、ちゃんと5本の指があるかどうか「足を見せてくれ」と言われたそうです。
その後のハリマヤ運動用品
高度経済成長によって日本が豊かになり、スポーツ人口が増えるにつれて、ハリマヤ運動用品も大きく発展していき、経営も辛作から数えて3代目になりました。
ハリマヤは最初に辛作が播磨屋足袋店を始めた東京・大塚に本社を構え、北陸地方に生産拠点を持つようになります。
常に最先端
ハリマヤはシューズ開発の最先端をいき、常に他社をリードするようになります。
シューズの三本ラインは今ではよく見るデザインですが、ハリマヤは単なるデザインではなく、走った時に布が伸びるのを防ぐためにつけたラインでした。
他にも、シューズにかかとの衝撃を抑えるヒールカップを入れ、中敷きを敷いたり、そして甲の部分にメッシュ素材を使ったりと常に新技術を取り入れていきます。
ライバル、マジックランナーの登場で押される
しかし一方で、1960年代から70年代の陸上長距離界は、オニツカのマラソンシューズ「マジックランナー」に押されるようになります。
それまではカナグリシューズを履いた選手が成績上位者にあがっていましたが、オニツカのマジックランナーがそれにとって代わるようになりました。
1964年の東京オリンピックでは「マジックランナー」を履いた円谷幸吉が銅メダル、1968年のメキシコオリンピックでは君原健二が銀メダルを獲得しています。
大量に廉価版を製造
1971年にはハリマヤの工場もアジアに進出し、手ごろな体育シューズの生産も始め、大量に販売しました。
職人たちのどうしても国産を続けたいという声から競技用や市民ランナー用のシューズは国産を貫きます。
様々な競技向けのスポーツ用品を販売する総合メーカーには宣伝力、資本力ともに勝ち目がないため、陸上競技に特化したメーカーとして販売促進を行いました。
知る人ぞ知るメーカーに
ハリマヤはファッションとして厚底のスニーカーが流行った時期にも薄くて軽いマラソンシューズを追求していきます。
究極のマラソンシューズともいえる1982年のカナグリ・ノバは、一発勝負のシューズで、フルマラソン一回で履きつぶす薄さ、軽さでした。
そして倒産
最盛期には4~5億円もの売り上げがあったにも関わらず、バブル時代になると、ハリマヤは多角経営を始めました。
飲食業・不動産業にも手をだし、バブルが弾けて、91年には倒産してしまいます。
さいごに
いかがでしたでしょうか。播磨屋の創業者である黒坂辛作は金栗四三にとって重要なキーパーソンであり、彼の競技人生に大きな影響を与えてことがわかります。
最後は倒産することになってしまいますが、日本のマラソンを大きく盛り上げたことに敬意を表したいですね。