菅原道真公とは平安時代に活躍した貴族です。
宇多天皇に重用され、醍醐朝天皇の時代には右大臣となりました。
しかし、斉世親王を即位させようとしたという偽りの情報を左大臣・藤原時平が密告したことによって大宰府へ左遷され、菅原道真亡き後、怨霊として恐れられました。
そんな、菅原道真公の生涯や怨霊となった経緯、菅原道真公を祀る全国の神社に植えられた梅について、また子孫などを解説していきます。
菅原道真の生い立ち
承和12年6月25日(845)菅原道真は菅原是善と伴真成の娘から誕生したとされています。
出身地は、奈良市菅原町周辺、菅大臣神社(京都市下京区)、菅原院天満宮神社(京都市上京区)などがあげられていますが、明確な史料はないため、判明されていません。
菅原道真は幼少の頃から詩歌の才能を持ち、5歳で和歌を詠んでいたとされています。
このことから貞観9年(867)、菅原道真が23歳の時、朝廷に仕えることのできる文章得業生となりました。
官位を上げていく
元慶元年(877)には文章博士となり、元慶4年(880)に父・菅原是善が亡くなると、菅家廊下という私塾を開き、紀伝道などの講師を務めます。
私塾を開いた菅原道真は朝廷内の文化人の中で中心的な人物となりました。
仁和2年(886)、文章博士を辞め仁和4年(888)に起きた、藤原基経と宇多天皇の対立である阿衡事件を収めます。
この事件以来、菅原道真は宇多天皇から信頼を得、要職を歴任するようになります。
当時、関白であった藤原基経が亡くなった後、その後継者となる有力人物が藤原家にいなかったことから、菅原道真は朝廷内で、官位を上げていくことができました。
寛平5年(893)には、公卿に列するまで、官位を上げています。
遣唐大使に命じられる
菅原道真は寛平6年(894)に遣唐大使に命じられましたが、唐へ行くことはありませんでした。
その理由として、唐の社会情勢が混乱状態であったこと、遣へ行くための予算が膨大であったことがあげられていますが、遣唐使を廃止した明確な理由は判明していません。
皇族と関わりを深める
その後、菅原道真は寛平7年(895)に従三位・権中納言に叙任し、翌年には、長女・衍子を宇多天皇の女御、寛平9年(897)には三女・寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とさせます。
菅原道真は、このようにして皇族との関係を深めていきました。
右大臣となる
この頃、左大臣であった源融や藤原良世、右大臣・源能有たちが相次いで亡くなると、寛平9年(897)6月に菅原道真は権大納言兼右近衛大将、藤原時平が大納言兼左近衛大将に任命されます。
同年7月に宇多天皇が、醍醐天皇に譲位しましたが、この際、菅原道真は引き続き自身を重用するように訴え、醍醐天皇即位後も菅原道真と藤原時平は起用されるようになりました。
昌泰2年(899年)、菅原道真は右大臣に昇進します。
このような昇進をした菅原道真を疎ましく思う廷臣も多かったとされています。
左遷となる
昌泰4年(901)菅原道真は従二位となりましたが、この頃、菅原道真が醍醐天皇を廃立して娘婿である斉世親王を即位させようとしている。といった情報が密告されます。
菅原道真はこのような、計画など立てておらず、この偽りの情報の密告によって、菅原道真は罰として太宰府に左遷されてしまいました。
また菅原道真の子供4人も島流しとなります。
この偽りの情報を流したのは左大臣・藤原時平とされています。
菅原道真の最期
左遷された菅原道真は大宰府浄妙院で謹慎していましたが、延喜3年(903)2月25日、59歳で亡くなりました。
怨霊となった菅原道真
菅原道真亡き後、延喜9年(909)に藤原時平が39歳で亡くなり延喜13年(913年)には、菅原道真を左遷に追いやった1人とされる右大臣・源光が溺死、延喜23年(923)には醍醐天皇の皇子・保明親王、延長3年(925)に慶頼王が相次いで亡くなりました。
また延長8年(930)清涼殿が落雷をうけたことによって多くの朝廷用人が亡くなります。
怨霊の鎮魂
京都で起こったこれらの異変を朝廷は菅原道真の祟りだとし、菅原道真の魂の鎮魂を目的として、島流しとなっていた菅原道真の子供たちを京都へ連れ戻し、延喜23年(923)4月20日、従二位大宰員外師であった菅原道真を死後、右大臣に復し、正二位を与えました。
また70年後の正暦4年(993)には贈正一位左大臣としています。
このように、菅原道真の名誉回復は行われてきました。
北野天満宮の建立
菅原道真は清涼殿落雷の事件から怨霊と恐れられ、京都の北野には菅原道真の祟りを収めるため北野天満宮(北野神社)が建立されます。
ここから、雷神を信仰する天神信仰が全国に広まり、菅原道真が優れた学問の才能を持っていたことから、天神は学問の神様として信仰されるようになりました。
菅原道真と梅
飛梅伝説
菅原道真は京都を去る際、自宅にあった梅を見て「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠みました。
その後、菅原道真の自宅に咲いていた梅が一晩で、大宰府の菅原道真の屋敷の庭まで飛んだという飛梅伝説が残されています。
この一晩にして京都の菅原道真の自宅から、大宰府の屋敷まで飛んだとされる梅は、新しい地で種をまいたとされ、太宰府天満宮でその梅を見ることができます。
またこのことから菅原道真を祀っている神社では梅を見ることができます。
菅原道真の子孫
菅原道真は妻・島田宣来子の他に妾がいたとされ、15人の子供に恵まれました。
多くの子供たちは菅原道真が左遷されたことによって地方へと送られましたが、菅原道真亡き後は京都へ戻ったとされています。
菅原道真の子孫とされる人物
菅原孝標女
「更級日記」の作者です。
前田利家
天文7年(1539)から慶長4年(1599)頃まで活躍した戦国大名です。
大隈重信
第8、17代の内閣総理大臣となった人物です。
松平定勝
徳川家康の異父弟で江戸時代前期の大名です。
現在に続く子孫
松平定知
フリーアナウンサーで、元NHKエグゼクティブアナウンサーです。
菅直人
第94代内閣総理大臣となった人物です。
岡田卓也
実業家で、イオングループ名誉会長となった人物です。
入江 たか子
明治から昭和期の日本の映画女優です。
三ツ間 卓也
中日ドラゴンズ所属しているプロ野球選手です。
最後に
菅原道真は平将門、崇徳天皇とともに日本三大怨霊の1人として恐れられてきた人物でした。
しかし、現代では学問の神様として多くの人が、天満宮へ参拝に訪れています。
菅原道真は多くの子供を残していたため、現在においても菅原道真の子孫という方は多くいたようです。