平城京とは現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に元明天皇によって和銅3年(710)藤原京から遷都された都です。
延暦3年(784)には長岡京へ遷都されました。
そんな平城京の時代背景や遷都理由、平安京との違いを解説していきます。
平城京とは
平城京は現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺の場所に位置します。
今では平城京と呼ばれますが、当時は奈良京と呼ばれていました。
当時の天皇であった元明天皇によって飛鳥時代にあたる和銅3年(710)、現在の奈良県橿原市と明日香村にかかる場所にあった藤原京から遷都されました。
藤原京から平城京に遷都された理由
藤原京は、飛鳥浄御原宮から持統天皇8年(694)に移された都でした。
東西に5.3㎞、南北に4.8㎞という平城京、平安京よりも大きな都であったとされています。
道路整備や排水路網整備の各整備がしっかりと行われていましたが和銅元年(708)には平城京へと遷都となりました。
その遷都理由は明らかにされていませんが、藤原京で伝染病が蔓延し縁起が悪いため、占いの結果、のちの平城京となる場所の方が縁起のいい土地であったため、旧有力豪族の多くの集まった飛鳥から離れるためなどの推測がなされています。
藤原京から遷都された平城京
遷都された当初は、内裏と大極殿、官舎が整備された程度の都でした。
その他の建造物は長岡京へ遷都するまでの間に段階的に造営されていったとされています。
平城京は長岡京に遷都される天平17年(745)までの間に2度遷都されています。
恭仁京
現在の京都府木津川市加茂地区である山背国相楽郡に天平12年(740)聖武天皇によって平城京から遷都されました。
当時の右大臣であった橘諸兄の本拠地が山背国相楽郡であったため、この場所に遷都されたと指摘されます。
しかし、聖武天皇は恭仁京の整備が整っていないにも関わらず、現在の滋賀県にあたる近江国に紫香楽宮と呼ばれる離宮を造営しました。
難波京
現在の大阪府大阪市である難波に天平16年(744)聖武天皇によって恭仁京から遷都されます。
恭仁京から遷都された理由は、紫香楽宮の整備が整うまでの間の都として、また対立関係であった上皇たちから離れるため難波に遷都したとされています。
しかし、天平17年(745)には再び難波京から平城京へと遷都されました。
奈良時代において5年間の間に4回も遷都されることとなります。
長岡京へ遷都される
延暦3年(784)桓武天皇によって平城京は現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区に位置する山城国乙訓郡に都を移します。
その遷都理由として、平城京では物資を運ぶ際、水路が無かったため陸路を使わざるをえせんでした。
また、平城京付近にも小川はあったとされていますが、平城京の人口は10万人を超えていたため、常に水不足の状態でした。
水不足であったため排泄物や生活用水は平城京内の溝に捨てられ、平城京内の衛生環境は非常に悪かったとされています。
このような地理的弱点を解決するため、桂川、宇治川、淀川の大きな川が流れている場所に遷都したとされています。
平城京のつくり
東西約4.3㎞、南北約4.7㎞にも及ぶ大規模な都でした。
平城京の中央には朱雀大路が整備されその朱雀大路を境に左京と、右京で分けられ、左京のさらに東側には外京が設置されています。
東西軸には一条から九条大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設けられました。
一坊大路と二坊大路の間には藤原不比等、長屋王、藤原仲麻呂の屋敷が集まっていたとされています。
この平城京は、唐の長安城や北魏洛陽城をモデルとし、また平城京内には多くの寺社が建立されました。
四天王と称される大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺は平城京が藤原京から遷都される際に移転された寺です。
その他にも、天平神護元年(765)西大寺、法隆寺、唐招提寺などが建立されています。
平安京との違い
平安京と平城京は名前が似ているため、間違えられることがありますが、全く別物の都です。
平安京とは
平安京は現在の京都府京都市、京都市街に位置する場所にありました。
平安時代にあたる延暦12年(793)1月に当時の天皇である桓武天皇の命によって長岡京から遷都され、延暦12年(793)から明治2年(1869)までの間、日本の首都とされます。
長岡京から平安京に遷都された際、平城京は京都から見て南にあったため南都と呼ばれました。
平城京と同じく唐の首都長安城をモデルに造営されています。
最後に
平城京はシルクロードの終着地とされ、国際的な都でした。
そのため、平城京内には、インドや、唐人、新羅などの外国人がいたとされています。
シルクロードの終着地であったことから日本にもたらされた異国の品は東大寺正倉院に納められ、今でもその宝物を見ることができます。