日本の水泳界躍進の基礎を作った高石勝男。自由形で銀メダルを獲得し、引退後は指導者として活躍しました。その生涯をエピソードとともに解説します。
高石勝男とは
1906年、大阪府生まれ。3回オリンピックに出場し、アムステルダムオリンピックでは銀メダルを獲得します。
その後は芦屋水練学校を作り、水泳の普及に尽力しました。
茨木中学校
日本初の学校プール
高石の通った茨木中学校には1913年に作られた日本初の学校プールがありました。
1910年に大阪府知事から「大阪府立中学校の生徒には、夏季水泳の訓練を必修の課目として実施すべし」という訓令を受けて作られたものです。
このプールからは高石を含め、たくさんの水泳選手が生まれることになりました。
泳法研究
当時は競泳での泳ぎ方自体が定まっておらず、オリンピック参加者が持ち帰った知識をもとに各地で研究が進められていました。
1920年のベルギーアントワープ大会に参加した内田正練は、100mと400m自由形で欧米の選手がクロールで泳ぐ中、古式泳法で参加し、予選敗退しました。
この時、内田は世界で戦うにはほかの選手のようにクロールで泳ぐしかないと確信し、すぐにクロールを習得し、帰国後はクロールの普及活動を行っていきます。
茨木中学校でのクロール
こうした背景があり、茨木中学校の教諭、杉本伝も当時最新の研究書を読んでクロールを研究し、生徒を指導していました。
当時は一般的にクロールでは息継ぎをしないため、短距離専用という考えが主流でしたが、息継ぎができるように泳ぎ方を修正します。
そして、茨木中学校独自のクロールが出来上がっていきました。
競泳で銀メダルを獲得
高石は、茨木中学校で最新のクロールを身に付け、1924年のパリ大会で自由形の100メートルと1500メートルで5位入賞します。
そして四年後のアムステルダム大会は、自由形800mリレーで9分41秒4という成績で銀メダルを獲得しました。
ロサンゼルス大会では、主将として日本競泳チームを陰から支え、6種目のうち5種目に金メダルをもたらしました。
その後
芦屋水練学校の開校
戦後間もなくの1949年に高石は「子どもたちの夏休みを有意義なものにしたい」と知人の芦屋市長に相談します。
当時の芦屋市長・猿丸吉左衛門は、もとはスポーツ選手でもあり、運動に関して理解がありました。
そして市の主催事業として、芦屋水練学校を開くことになります。
泳げない子のために指導法の開発をする
高石は芦屋水練学校の理念に「国民皆泳」「水難事故防止」「低年齢層からの水泳選手強化」を掲げ、子どもをみな泳げるようにしようと指導方法を試行錯誤していきます。
その結果、犬かきのような泳ぎから始めて、平泳ぎやクロールへと誘導していくやり方を見つけました。
このやり方で、たった一週間の講習で、ほとんどの生徒が50メートルや100メートルを泳げるようになったそうです。
スポーツ科学の重要性
それまではとにかくがむしゃらに練習をすれば速く泳げるようになるという考え方が一般的で、経験者がコーチとして勘で水泳を教えてきました。
しかし、高石はスポーツ科学を取り入れ、明確な根拠をもって弱点を改善していくことの重要性を説き、プール外での筋力トレーニングにも力を入れます。
早すぎる死
芦屋水練学校の開校から17年後、1966年4月に高石は60歳で病死します。
高石の志を引き継ごうという思いから、大阪扇町プールで日本水泳連盟葬が盛大に執り行われました。
この葬儀には、金メダリストの鶴田義行や前畑秀子などを含め3000名以上が参列したそうです。
エピソード
粗末だった学校プール
茨木中学校の学校プールは、当初、生徒たちの手作業で造られ、木の杭と板の囲いに茨木川の水を引き込んだだけの粗末なものでした。
そのため、水泳池と呼ばれていましたが、たびたび改修が行われ、最終的には50mプールとなります。
茨木中学校には後の文豪・川端康成も通っており、「体操」の授業としてプール造りに参加したそうです。