足利義政(あしかがよしまさ)は室町幕府8代将軍で、応仁の乱を引き起こした張本人でありながら政治に無気力で乱世の最中、隠居してのちに東山に銀閣寺を建て、芸術や趣味に没頭し東山文化が栄えるきっかけを作った人物です。
そんな足利義政の生涯をクローズアップして応仁の乱や東山文化について詳しく説明していこうと思います。
また、子孫や家系図についても生き様を振り返りながら紹介していきます。
足利義政の生い立ち
永享8年(1436年)恐怖政治を行ったことで知られる室町幕府第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の三男として生まれました。
嘉吉元年(1441年)、父・足利義教が嘉吉の乱で赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺され、母を同じくする兄の足利義勝(あしかがよしかつ)が7代将軍となりましたが早世したために、足利義政はわずか8歳にして将軍職を継ぐこととなったのです。
若年期は政治に意欲的だった。
将軍となった足利義政は祖父・足利義満(あしかがよしみつ)や父・足利義教のような専制政治を行おうと意欲的に取り組んでいきました。
まず鎌倉公方・足利成氏(あしかがしげうじ)と関東管領・上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対して兄の足利政知(あしかがまさとも)を派遣して介入します。
この時代、有力守護大名の家督相続の内紛が多く、そこへ幕府が介入しては収拾を図ろうとすることが多くありました。
足利義政もそれまでの将軍のように、家督相続の内紛に積極的に介入していったのです。
外交への取り組み
祖父・足利義満が始めた勘合貿易(日明貿易)が一時中断していましたが、足利義政はこれを再開します。また、琉球使の謁見を自らの庭で行いました。
側近政治への移行
最初こそ意欲的に政治を行っていた足利義政ですが、どうにも足利義政の思うようにはいきません。その理由は足利義政の側近である三魔と呼ばれた今参局(いままいりのつぼね)、烏丸資任(からすまるすけとう)、有馬元家(ありまもといえ)という3人がおり、異常な発言力を持っていたのです。
その上、妻・富子や妻の実家である日野家、有力守護大名や管領などの介入で、足利義政自ら主導権を握ることの困難さを思い知らされていきます。
このような状況から現実逃避をするように足利義政は趣味に没頭し自ら政治を主導することから離れ、寛正の大飢饉が起き天皇から勧告を受けても私邸の改築や趣味をやめませんでした。
将軍後継問題
側近政治に距離を置くように趣味に没頭する足利義政は早くの隠居を考え、妻・富子との間に男子がなかったことから弟・足利義視(あしかがよしみ)を養嗣子とし隠居の準備に入ります。
しかし、2年後には妻・富子との間に嫡男・足利義尚(あしかがよしひさ)が生まれたことにより必然的に後継問題が起こり、はっきりとさせない立ち位置の足利義政をよそに実子の足利義尚を擁する妻・富子と、弟・足利義視がそれぞれに宿敵同士である山名宗全(やまなそうぜん)・細川勝元(ほそかわかつもと)に協力を求めたことで京で内乱が勃発していくのです。(応仁の乱)
応仁の乱
将軍後継問題と、足利義政の政治を意に介せずな言動から京を東西にして内乱(応仁の乱)となっていきますが、この戦いはその後11年に渡って続く長く大規模なものとなっていきました。
応仁の乱の最中、足利義政は戦火を逃れてきた上皇や天皇と宴会を開き趣味に興じることを続けます。しかしさすがに長い時を経て、細川勝元支持として足利義尚継承を認める動きを見せ、遅すぎる頃に宗全追討の命令を出します。
その後、実子・足利義尚に将軍職を譲り正式に隠居しましたが、応仁の乱自体は長く策を講じなかったことも災いして将軍後継問題などどうでもよい状況となり、東西の大将が病で病死しても全国の武士同士の争いとなり、その後応仁の乱から戦国時代に移行してくのでした。
晩年から最後
足利義政が応仁の乱の後すぐに山荘東山殿の造営に取り掛かり、趣味と庭園、山荘造りに没頭している間に9代将軍となった嫡男の足利義尚が討伐の陣中で死去します。
足利義政は少しの間政務を引き継ぎましたが、妻・富子の反対もあり美濃に亡命していた足利義視と和睦し、義視の嫡男・足利義稙(あしかがよしたね)を自らの養子に迎え第10代将軍に指名して後事を託しました。
その後、東山殿の完成を待たずして死去。55歳(満54歳没)
文化人としての功績
足利義政は政治の面であまりにも功績というものを遺していません。しかし、自分の財力、人生をかけて愛した趣味(水墨画・枯山水・茶道・華道・建築様式など)は、東山文化として貴重な文化資産を後世に残しました。
書院造などもその後の武家住宅の基礎となり文化人としての功績は多大と言えるでしょう。
銀閣寺
銀閣寺とは正式名称を東山慈照寺(じしょうじ)といい、金閣寺と同じく相国寺の塔頭寺院の一つです。
応仁の乱の後すぐ、東山の月待山麓に自ら茶の湯や書画を楽しむ暮らしをしながら山荘東山殿(銀閣寺)の造営を始め、自らの美の神髄を集約しました。(東山文化)
銀閣寺と呼ばれるよになったのは江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったと言われています。
現在の慈照寺ついては、足利義政死後臨済宗の寺院となり足利義政の法号慈照院にちなんで名づけられました。
昭和27年(1952年)庭園が 特別史跡および特別名勝に指定され、平成6年(1994年)には金閣寺と同じく古都京都の文化財の一部として 世界遺産に登録されています。
子孫、家系図
足利義政の祖父は室町幕府第3代将軍にして公武両勢力の頂点に君臨し金閣寺を建てた足利義満です。
父・足利 義教は室町幕府・第6代将軍でしたが恐怖政治の為臣下の守護大名に暗殺されました。
兄・足利 義勝は室町幕府・第7代将軍になりましたが、幼くして早世しました。
足利義政は「日本三大悪女」として語られる妻で正室・日野富子(ひのとみこ)と、側室・大舘佐子(おおだちさこ)、今川範将(いまがわのりまさ)の娘などの間に子がおり、記録がありわかる範囲で紹介してみたいと思います。
足利義政の実子
男子
- 足利義尚…室町幕府第9代将軍
- 義覚…僧侶
女子
- 光山聖俊…景愛寺・大慈院・宝鏡寺の住持(尼)
- 堯山周舜…総持院(尼)
養子
- 足利義視…足利義政の実弟
- 利 義稙…実弟足利義視の子で室町幕府第10代将軍
- 足利 義澄(あしかが よしずみ)…足利義政の異母兄・足利政知の子で室町幕府第11代将軍