現在では、至極当たり前にお金によって税を納めていますが、徳川将軍が治めた江戸時代では米で納めることが普通であり、お金で納めるという考えは持ち合わせていませんでした。
その考えが変わったのが明治時代で、明治政府が行った地租改正という制度改革によってお金で税を納めるようになりました。
その地租改正とはどのような条例があり、どんな目的で行われたのでしょうか。また、その制度に反対した人々が起こした反対一揆について解説していこうと思います。
地租改正が行われた時代背景
江戸時代までは米によって年貢(税)を納めていたことは書きましたが、毎年収穫できる米の量は変わるので、それによって米の値段も変動してしまいます。
明治政府は財源を安定的に確保したいため、今まで通りのやり方だといけないということで、地租改正が行われたのです。
地租改正の内容と目的
地租改正の目的は大きく分けて2つあります。
1つは、税金によって政府の財源を確保すること。もう1つは、藩によって様々だった年貢の比率を一定にし、全国一律の税金を徴収することです。
それぞれの内容について解説していきます。
①地主は地価の3%を支払うことで安定税収を得る
土地を持っている地主は、地租改正によって記録された土地台帳に従い、土地の価格の3%を毎年政府に納めることになりました。
これにより、米の収穫高に変動されず、安定した税収を政府は得ることができるようになりました。
②全国統一の税制により、強い藩の力を奪う
徳川幕府の時代、幕府の領地の年貢はそのまま幕府の財源となりましたが、藩の領地の年貢は藩が自由に使えるものでした。
そのため、年貢の比率は藩の財政、藩主の意向によって変動があったわけです。
放置すれば、長州藩、薩摩藩といった財源の豊かな藩をつくり出すこととなり、再び、内乱の世がやって来ないとも限りません。
それを防ぐためにも、地租改正によって一定比率の税を集めることにしたのです。
地租改正が施行されるまで
では、地租改正が施行されるまでの歴史を、分かりやすく時系列で説明しましょう。
田畑勝手作許可の発令
1871年2月15日、まずはじめに、田畑勝手作許可が発令されます。
分かりやすく言えば、田畑にどんな作物をつくっても構いませんという許可が出されたのです。
明治政府は手始めに、農民たちに対し、米でも野菜でも果物でも好きな作物をつくらせ、その土地はあなたたちの自由になる土地であるということを知識として植えつけます。
田畑永代売買解禁の広布
1872年、田畑永代売買解禁が公布されます。
1643年に遡ると田畑永代売買禁止令が定められていたのですが、明治政府はその禁止令を解禁し、今もっている田畑は自由に売買しても構いませんという許可を与えました。
明治政府はこの公布により、農民たちが隠し持っていた田畑すべての土地の情報を仕入れ、その田畑の所有者を明確にし、税を徴収することに成功します。
地券の発行
続いて、地券発行になります。
その名称通り、土地を所有することを証明する確認証が発行されました。
壬申地券とも呼ばれるもので、その土地の面積、収穫高、価格等が記載されています。
地租改正条例の公布
そして1873年7月28日、地租改正が公布されます。
先に説明した通り、今まで米で納めていた年貢をお金で納めることに変えた制度ですね。
農民は地主に対し、土地価格の3%をお金で納めなければなりません。
お金で納めるようになったため、米の豊作、不作は関係ありませんでした。
毎年、決められた日までに税を納めなければならなくなり、農民たちの負担は徐々に肩に重くのしかかり、反対一揆が起こるようになります。
反対一揆勃発
地租改正の翌年1874年から1877年にかけて、全国で地租改正反対一揆が勃発します。
中でも、激しい反対一揆を起こしたのは、形県庄内地方のワッパ騒動、茨城県真壁での真壁騒動、三重・愛知・岐阜を中心とした伊勢暴動になります。
伊勢暴動のおかげで減税?
伊勢暴動での処罰者は5万人ということですから、この数字を見てもその一揆の規模が分かるのではないでしょうか。
これら全国で多発した一揆を受け、大久保利通率いる明治政府は3%だった税を2.5%へと軽減する処置を取りました。
その当時、農民たちは「竹槍で、ドンとつき出す二分五厘」という言葉を率先して口にしていたそうです。
7年続いたワッパ騒動
反対一揆の中でもっとも大きな爪痕を残したのは、参加者1万数千人とされているワッパ騒動になります。
1873年末から1880年末まで、7年間もの長い間繰り広げられた騒動で、百姓一揆から自由民権運動へと発展しています。
ちなみに、この騒動で雑税4項目の廃止、村費用の一時取り立ての中止を勝ち取っています。
まとめ
地租改正について解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。
今までの納税方法を大きく変えるということですから、現代に置き換えてみても様々な摩擦が起こりそうですが、当時も社会的にかなり大きな影響を与えたことが分かりますね。
地租改正は現代の日本税制の始まりとも言える制度なのです。