マゼランとは大航海時代に活躍したポルトガルの航海士です。
スペインのカルロス1世から世界周航西ルート開拓を命じられ、スペイン船の艦隊を率いて世界周航西ルートの開拓を行いました。
南米大陸南端のマゼラン海峡を発見したマゼランは、ヨーロッパ人で初めて太平洋の横断を成し遂げました。
しかし、マゼランはフィリピンにおいて戦死することとなり、史上初の世界一周を目にすることはありませんでした。
そんなマゼランの生い立ちや経歴、「マゼラン海峡」の場所や航路について解説していきます。
マゼランの生い立ち
フェルディナンド・マゼランは1480年頃、父・ルイ・マガリャンイスと母・アルダ・デ・メスキータの息子としてポルトガル北部ミーニョ地方ポルト近郊ポンテ・ダ・バルカで誕生したとされています。
1492年頃、12歳となったマゼランは王妃レオノール・デ・ヴィゼウの小姓としてポルトガル宮殿に仕えるようになりました。
このポルトガル宮殿で仕えている歳にマゼランはコロンブスの新大陸の発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路の発見などを知るようになり航海に興味を抱き始めます。
ポルトガルもバスコ・ダ・ガマの影響を受け1500年から次々とインド洋へ艦隊を送り出したとされ、マゼランも25歳の頃、そのうちのアルメイダの艦隊に加わり、初の航海を行ったとされています。
マラッカ遠征
航海士として経験を積んだマゼランは1509年9月になるとマラッカ遠征に加わります。
当時、ポルトガルは多くの香辛料の原産地はインドではなく香料諸島であるということを把握していました。
またポルトガルと対立関係であったスペインが西回りルートでの東洋航路を模索しているとう情報も手にしていたため、ポルトガルはスペインよりも早く香料諸島を手にしようと考え、その中継拠点であるマラッカを確保しようと考えたのです。
しかし、このマラッカ遠征に失敗に終わったのでした。
船長の地位が与えられる
マラッカ遠征が失敗に終わったマゼランでしたが、マラッカ遠征での活躍が評価され、船長の地位が与えられます。
下級貴族出身のマゼランであったため船長の地位は非常に高い地位でした。
この頃になるとポルトガルはインドの沿岸拠点を支配しており、1511年4月、再びマラッカに大艦隊を送ると、マラッカを制圧します。
この功績でマゼランは大型のカラベラ船の1隻と奴隷が与えられました。
フランシスコ・セラーンからの手紙
マゼランの従兄弟であるフランシスコ・セラーンは最初の香料諸島遠征に参加し、香料諸島を支配すると、その香料諸島の1つであるテルナテの王の軍事顧問のような役割を担っていました。
そのため非常に裕福な暮らしをしていたとされ、マゼランに香料諸島は噂の通り豊富な香料がある。といった手紙などを送っていたとされています。
後にマゼランがスペイン王の元で西回りの香料諸島渡航ルート開拓を志願することとなりますが、フランシスコ・セラーンの手紙が志願する動機となったと考えられています。
その後、フランシスコ・セラーンはテルナテ王と香料諸島の王の1人ティドーレ王に毒殺されるといった結末を迎えました。
フランシスコ・セラーンから手紙を受け取ったマゼランはフランシスコ・セラーンのいる香料諸島へと向かいましたが、すでにフランシスコ・セラーンは殺害されていました。
そのためマゼランは香料諸島の別の島の王・ティドーレから厚遇を得たとされています。
その後、マゼランは1513年1月にポルトガルに帰国しました。
ポルトガルの発展
マゼランが帰国した1513年1月頃、ポルトガルはインドへの航海ルートを確立しており、香料貿易の栄える国へと発展し大海洋国(ポルトガル海上帝国)としての地位を固めました。
香料貿易を独占し遠洋貿易を独占する勢いを持っていたとされています。
マゼランが帰国後、どのような生活をしていたのかは分かっていません。
しかし帰国後、ほどなくして1513年8月に勃発したモロッコのアザムール攻略に参加したとされ、この戦いで右足に怪我を負い、不自由になったとされています。
ポルトガルを去る
1515年、帰国したマゼランはポルトガル王マヌエルに謁見した後、ポルトガル宮殿を去ります。
なぜポルトガル宮殿を去ったのか、明確な理由は分かっていませんが、戦いにおいて大怪我を負ったにもかかわらず月俸の増額をしてもらえなかったこと、東洋へ派遣される船の指揮を任せるよう頼むも拒まれたことが、ポルトガル宮殿を去った理由と考えられています。
ライバル、スペイン
マゼランがポルトガル宮殿を去ったこと、ポルトガルとライバル関係であったスペインは西回り航路の開拓に興味を持ち、西回りでアジア航路の開拓を行っていました。
東周りでインド航路を固め、東洋貿易において利益を得ていたポルトガルに対し、東洋貿易において拠点を持たないスペインは西回り航路の開拓に大きな期待を寄せていたのです。
1515年にはスペイン王フェルナンドはフアン・ディアス・デ・ソリスを南アフリカに派遣し、開拓を行っていたとされています。
スペイン艦隊の指揮官に任命される
当時、スペインの外洋航海を仕切っていたスペイン宮廷のロドリゲス・デ・フォンセカは、航海士であるマゼランの存在を知ると、ただちに開拓の為の探検隊の指揮官としてマゼランを任命します。
指揮官に任命されたマゼランはスペイン王・カルロス1世の謁見を得て、大アジア半島の南側に香料諸島とインドへ通じる海峡がある、自分の計画した西回りルート、西回りルートは東周りルートに比べはるかに安い価格で香辛料を手にすることができると説明します。
この説明を受けたスペイン王・カルロス1世はマゼランに航海の許可を与えました。
スペインとライバル関係であるポルトガル人がスペイン王から航海の許可を与えられるといのは異例のことでした。
航海のはじまり
こうして1519年8月10日、マゼランはスペイン艦隊を率いてセビリアを出向しました。
南西に進路を取ったマゼランたちは12月13日に現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着したとされています。
リオ・デ・ジャネイロ地方を後にしたマゼランたちは香料諸島へ通じる海峡を探し、南アフリカ東岸を南下し、パタゴニアのサン・フリワン湾に到達しました。
パタゴニアは厳しい冬を迎えていたため、マゼランたちは停泊することとなります。
しかし、この間、船員の1人であるスペイン人の幹部が反乱を起こすといった事件が起こり、マゼランは反乱についたビクトリア号の船長を刺殺するなどして反乱を抑えました。
マゼラン海峡の発見
1520年8月24日に航海を再開したマゼランたちでしたが、1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見します。
南アメリカ大陸南端とフエゴ島を隔てた場所にあるこの海峡は後に「マゼラン海峡」と名付けられることとなりました。
マゼラン海峡を発見したマゼランたちは1520年11月28日、海峡を抜け太平洋へと進みます。
太平洋の航海においてマゼラン率いるスペイン艦隊の乗組員たちの多くが壊血病と栄養失調で苦しむことなり、死人も出たとされています。
フィリピン諸島に到着
3月16日にフィリピン諸島に到着したマゼランは初めてフィリピン人と対面し、その時の出来事として「フィリピン人はものの道理が分かる人」と評価しています。
3月28日、マゼランがレイテ島付近で出会ったフィリピン人に対し話しかけたところ、マレー語が返ってきたため、この頃にはマレー人と交流を図っていたことが分かります。
その後、レイテ島南端沖のリマサワ島で王コランプに対面したマゼランは王コランプからセブ島を紹介されました。
セブ島における布教活動
4月7日、セブ島の探検を開始したマゼランは、セブ島の先住民を驚かすため大砲を撃ち上陸しました。
上陸したマゼランはキリスト教を普及したとされ、王をはじめ500人が洗礼を受けたとされています。
3週間セブ島に滞在したマゼランでしたが、一向に次の香料諸島へと向かう気配はなく布教活動を続けていました。
マゼランの最期
マゼランの布教はセブ島のみならず周辺の島々にも及び、多くの島がキリスト教に改宗したとされています。
しかし、マクタン島の王・ラプ=ラプは改宗に応じず、結果、改宗を行おうとするマゼランと、ラプ=ラプ王による対立が生じ、武力闘争へと発展しました。
この対立においてマゼランは1521年4月27日、戦死しました。
まとめ
マゼランはポルトガル人の航海士となった人物でした。
しかし、ポルトガルとライバル関係であったスペインの艦隊の指揮官を任されることとなり、世界周航西ルートの開拓を行います。
この航海の最中、西の海へと抜ける海峡を発見し後に「マゼラン海峡」と呼ばれることとなりました。
マゼランは晩年布教活動を行っていたとされていますが、布教活動が原因となりマクタン島の王・ラプ=ラプと対立し、命を落とします。
マゼランは戦死したため、史上初の世界一周を目にすることはできませんでしたが、彼が率いたスペイン艦隊がマゼランが亡くなった翌年の1552年に史上初の世界一周を成功させました。