みなさんは六法をご存ですか?
現在の日本における大切な6つの法律、憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法のことです。
この法律によって犯罪が裁かれたり、商売をするルールや個人間のトラブル解決が行われています。
鎌倉時代にも当然この六法のような法律がありました。
それが御成敗式目(ごせいばいしきもく、または貞永式目・じょうえいしきもく)と言われる法律です。
日本史の試験にもよく出題される御成敗式目が何の目的で、誰によって作られ、どのような内容であったのかを今回はわかりやすく紹介します。
御成敗式目誕生の背景
源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府を創設した当初、明文化された法律と言うものは存在せず、武士が成誕生した当時からの習慣や道理などの経験と蓄積によって問題を解決していました。
現在で言えば、裁判の判決(判例)を基準にして善し悪しの判断していたのです。
では、鎌倉幕府が成立した1185年頃に必要のなかった法律が、なぜ御成敗式目が作られた1232年に必要となったのでしょうか?
これには1221年に起こった承久の乱が大きく影響しています。
承久の乱に勝利した幕府は、朝廷の勢力を抑えたことで支配権が遠く西国にまで広がり、鎌倉から中国、九州地方に御家人が地頭や守護として赴任しました。
これによって日本各地で公家を代表とする荘園領主や住人と地頭がもめることが多くなり、幕府がこれを裁くのに必要な先例が膨大になりすぎて判断が遅くなる事象が各地で起こりました。
執権・北条泰時の肝煎りで成立
承久の乱以後、日本国中で土地の支配権や境界線をめぐる争いなどの民事的な揉め事、殺人や傷害などの刑事事件が頻発するようになり、これらが政所や問注所、侍所などの幕府機関に多数持ち込まれ、この判断を下すことが幕府の運営にも支障を来すようになります。
これを憂いた時の執権・北条泰時(ほうじょうやすとき)は初代連署に任命した北条時房(ほうじょうときふさ)や三善康連(みよしのやすつら)らの評定衆とともに全51条からなる御成敗式目を制定したのでした。
御成敗式目は鎌倉時代に不備や補充の必要が出来ると式目追加という名で追加法が制定され、鎌倉幕府が滅亡後もその法的能力が継続され、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)も御成敗式目の規定遵守を厳命しており、室町期にも法令が必要に応じて追加され、戦国時代になっても分国法として御成敗式目は武家法の中心として存在しました。
御成敗式目の特徴
源頼朝以来の先例や武家社会の道徳、習慣をそのまま明文化した御成敗式目は、御家人の権利や義務、地頭や守護の職務規定、所領相続に関する規則が数多く記載されており、武家に対してのみ有効とされる法律として整備されていきました。
公家には律令があり、御成敗式目は公家に対しては効力が及ばないと言う考え方をしており、逆に言えば律令は武家には適用しないと決められていました。
聖徳太子が作ったとされる十七条憲法に由来して、17の3倍である51条で当初制定され、鎌倉、室町、戦国、安土桃山時代を経て、江戸時代の初期まで武家法として存在し、明治維新後に制定される現代の民法にも影響を与えたとされています。
また御成敗式目は女性が御家人となることを容認しており、NHK大河ドラマの主人公となった井伊直虎(いいなおとら)や淀君、立花誾千代(たちばなぎんちよ)などが女城主として存在した記録が残っています。
御成敗式目は今よりも進んだ男女雇用均等法を採用していたようです。
御成敗式目を作った北条泰時
鎌倉幕府第3代執権として権勢をふるった北条泰時は源頼朝の正室・政子の弟である北条義時(ほうじょうよしとき)の長男で、北条氏繁栄の基礎を築いた人物として有名です。
若い頃から父・義時に従って比企能員(ひきよしかず)の変、和田合戦などの対立する有力御家人らとの権力闘争を勝ち抜き、承久の乱では幕府軍総大将として19万の兵を従えて上洛、後鳥羽上皇軍を破って幕府軍に勝利をもたらしました。
その後、新設された六波羅探題に駐屯して朝廷の監視や西国の統治などに尽力、2代執権・義時が急死すると3代執権に就任し、連署、評定衆を新設するなど幕府執行部を強化し、北条氏による独裁政権を確立していきます。
北条氏の独裁が確立していく過程で、多くの訴訟や揉め事の解決、仲裁の必要性が、彼に御成敗式目を制定させた原動力となったのです。
御成敗式目まとめ
日本史上初の武家政権であった鎌倉幕府は、誕生当初は創業者たる源頼朝のカリスマ性によって統治されていましたが、頼朝亡きあとはその血をひく頼家、実朝が相次いで暗殺され、鎌倉幕府の屋台骨が揺らぎ将軍の権威が失われていきました。
政権を支える北条氏としては御家人をまとめ上げるために、主観や先例だけで政権を維持をすることは難しく、確固たる統治の基準が必要となっていきました。
これが3代執権・泰時が御成敗式目制定した最大の理由であり、この法律がこの後、100年もの長きに渡って鎌倉幕府を支えていくことになったのです。