2004年、新渡戸稲造(にとべいなぞう)にかわって新五千円札の肖像となった作家・樋口一葉。
作家としてわずか一年半の活動で「たけくらべ」「にごりえ」などの作品を書き上げ、文壇から絶賛されながらもわずか24歳と6カ月で短い生涯を閉じた彼女の人生や作品、名言などを探求していきたいと思います。
樋口一葉の誕生
1872年5月2日東京府第二大区(現在の東京都千代田区)で父・則義(のりよし、のちの為之助)、母・あやめ(のちに多喜)の第五子として誕生しました。
祖父・八左衛門(はちざえもん)は甲斐国山梨郡(現在の山梨県甲州市)の百姓ながら、俳諧や狂歌、漢詩を嗜む学問好きで、その影響か父も百姓仕事よりも学問を好んだそうです。
母・多喜との結婚が許されなかった則義は家出同然で東京へ出てお金の力で幕府直参となり、明治維新後は下級役人として勤めますが、のちに免職し、その後は色々な事業に手を出しては次々と失敗して多額の借金を作ります。
このため樋口一葉が生まれた頃は樋口家の財政は既に火の車であったようです。
幼少期から才能開花
一葉は祖父、父同様に読書好きで7歳で曲亭馬琴(きょくていばきん)の「南総里見八犬伝」を読破しており、父はこの頃から一葉の才能に気づいていたようです。
しかし母は女性に高等教育は必要ないと考えていたようで、一葉は私立学校を首席で卒業するも上級科へは進級せず、退学しました。
一葉の才能を惜しんだ父は、知人の紹介で歌人・中島歌子(なかじまうたこ)が主宰する「萩の舎」に入門させます。
ここで源氏物語などの古典文学や和歌を学んだ一葉は、元老院議員・田辺太一(たなべたいち)の令嬢で小説「藪の鶯」を執筆した三宅花圃(みやけかほ)とともに萩の舎の二才媛と呼ばれました。
生活苦と小説家への道
1887年(明治20年)明治法律学校(現在の明治大学)に通っていた兄・泉太郎(せんたろう)が死去、1889年(明治22年)後を追うように父・則義も死んでしまいます。
これによって一気に生活苦となった樋口家は針仕事や洗い張り(和服の洗濯)で何とか生計を立てますが、父の残した借金が重くのし掛かります。
一葉は萩の舎の姉弟子だった三宅花圃が執筆した小説により多額の報酬を受けたことを知ると、作家への転身を決意し東京朝日新聞専属作家の半井桃水(なからいとうすい)が創刊した「武蔵野」に処女小説「闇桜」を発表しました。
その後は三宅花圃に紹介された平田禿木(ひらたとくぼく)が寄稿する文芸雑誌「文芸界」に「雪の日」「大つごもり」を発表、また半井桃水に紹介された大橋乙羽(おおはしおとわ)が運営する出版社・博文館の「文芸倶楽部」に「にごりえ」「たけくらべ」を発表、森鴎外(もりおうがい)や幸田露伴(こうだろはん)から絶賛されました。
樋口一葉の最期と死因
文壇に認められた樋口一葉のもとには島崎藤村(しまざきとうそん)や慶應義塾大学教授で評論家の馬場孤蝶(ばばこちょう)などの文筆家や出版関係者が多数訪れるようになり、一葉のまわりは作家デビュー前とはうってかわって、文芸サロンのような賑やかな雰囲気となりました。
ところがこの頃、既に樋口一葉の身体は当時には治療法が確立していなかった肺結核に蝕まれており、森鴎外の依頼によって明治天皇の侍医で東京帝国大学医学部教授も勤めた青山胤通(あおやまたねみち)らが診察するも、回復は絶望的との診断が下されます。
1896年(明治29年)11月23日、24歳6カ月というあまりにも短い生涯を自宅で閉じました。
11月25日東京築地本願寺で身内だけの葬儀が行われましたが、一葉の才能を絶賛していた森鴎外は、陸軍軍医総監・森林太郎の肩書きで騎馬、正装での参列を希望しましたが、母・多喜や妹・くにに丁寧に断られたそうです。
樋口一葉と五千円紙幣
現在流通している日本銀行券の五千円紙幣に肖像画として採用された樋口一葉は、女性としては神功皇后(じんぐうこうごう)以来、二人目となります。
2004年(平成16年)11月1日から流通しているのですが、実は若くして亡くなったため顔に皺がなく、また女性のため髭などもないことから偽造防止の工夫が難しく、原版を起こすのに時間がかかり、同時に変更される予定であった福沢諭吉(ふくざわゆきち)の一万円紙幣、夏目漱石(なつめそうせき)の千円札よりも遅れて市場に出回るようになりました。
樋口一葉の作品と概要
にごりえ
1895年(明治28年)9月、博文館「文芸倶楽部」に発表された短編小説。
銘酒屋(表看板は飲み屋、実は売春宿)の遊女お力は他に好きな男がいながら、自分に入れあげて店に通ってくる布団屋の源七を受け入れていた。
お力に金を注ぎ込み身代を潰し、女房、子供にも愛想を尽かされた源七はお力を刀で刺し殺し、無理心中をはかる。
たけくらべ
1895年(明治28年)文芸雑誌「文学界」に連載された短編小説。
吉原の遊女を姉に持つ14歳の少女・美登利 (みどり) と同級生で僧侶の息子・信如(のぶゆき)との淡い恋の行方とそれを取り巻く思春期の子供達の心の葛藤を描いた作品。
大つごもり
1894年(明治27年)12月文芸雑誌「文学界」に掲載された短編小説。
奉公に出ていた18歳のお峰は暇をもらえたため伯父の家へと帰ると、そこで伯父に借金の立て替え払いを頼まれる。
奉公先で借り受ける約束をしたお峰だったが、上手くいかず大晦日に一円札2枚を盗んでしまう。
大晦日の大勘定(有り金全てを封印する)で盗みがばれそうになり、伯父に罪が及ぶのを恐れたお峰は自殺を決意するが、実は総領(跡取りのこと)が有り金全てを盗んでいたのだった。
樋口一葉の名言
乙女のままこの世を去った樋口一葉は短い人生のなかで、いくつかの名言を残しています。
そのなかでも愛や恋、女心に関しての名言をいくつか取り上げたいと思います。
相手を想う愛や恋は尊いものだけども浅ましく、自分をむき出しにしてしまう恐ろしいものでもある。
たのしく、あぶなく、悲しく、のどかで、気分よく、面白いもの、それこそが恋というものなのです。
恋愛の本質を言い当てているように思える言葉がならんでいます。
長生きしていたら、恋愛のカリスマと言われていたかもしれません。
樋口一葉まとめ
肺結核という当時は不治の病に冒されて志し半ばで若い命を散らした樋口一葉。
作家となった動機は生活苦からの脱出、すなわちお金目的だったようですが、書き初めてからわずか一年半で多くの人を夢中にさせるような小説を次々に発表、一般人だけでなく文壇で活躍していた先輩作家さえも虜にしました。
職業女性作家のパイオニアとして切り開いた道にはその後数多くの女性作家が続き、明治、大正、昭和、平成と続く近代文学の1部門を形成していきました。
彼女の登場が日本文学に与えた影響は計り知れないものだっただけに、若すぎる死が惜しまれてなりません。
そう考えるのは筆者だけでは無いと思います。