夏目漱石とは?妻や死因、名言や「こころ」などの作品について解説!

デビュー作が「我輩は猫である」、こう書いてしまうと今回紹介する人物が誰なのかすでにおわかりになられたと思います。

夏目漱石、本名・夏目金之助(なつめきんのすけ)は1905年に発表した「我輩は猫である」以降、「坊つちやん」「三四郎」などの作品を立て続けに世に送り出し、余裕派と呼ばれる日本文学の一流派を形成し、後々の作家たちに多大な影響を与えました。

1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された千円札の肖像画にも採用された夏目漱石を「こころ」などの作品や名言、死因、妻・夏目鏡子(なつめきょうこ)のことを解説しながら夏目漱石の人生に迫りたいと思います。

夏目漱石の誕生と作家への道

1867年2月9日、父・直克(なおかつ、なおよし)母・千枝(ちえ)の間に五男として誕生、しかし幼少期には二度も養子に出されています。

幼い頃から勉学は出来たようですが、養子に出された関係上、小学校を何度も転校して府立第一中学校に入学後も漢学や文学指向の漱石の希望に兄弟が反対していたため、第一中学校を中退します。

その後は成立学舎、第一高等中学校に学んで1890年創設間もない東京帝国大学(現在の東京大学)英文科に入学、この前後に生涯の友でもっとも漱石が影響を受けた正岡子規(まさおかしき)と出会っています。

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帝国大学の特待生となった漱石は兵役を逃れるために分家して戸主となり(戸主、世帯主は徴兵されない)、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして学費や生活費を稼ぎ、1893年東京帝国大学を卒業、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の英語教師となります。

しかし、日本人に英文学を教えることに疑問を覚え始めたことと、ここ数年続いた長兄、次兄との死別など親族の不幸、自身の肺結核などで極度の神経衰弱となり強迫観念や厭世主義に陥ります。

 

作家・夏目漱石の誕生と病気との戦い

1895年、師範学校を辞任した漱石は正岡子規の故郷である松山の愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の英語教師として赴任しました。

ここで漱石は正岡子規とともに俳句に熱中し多くの作品を残しました。

1896年、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師に転任すると、これを機に貴族院書記官長・中根重一(なかねしげかず)の長女・鏡子(きょうこ)と結婚します。

1900年、文部省の指示でロンドン留学が決まり、かの地に赴きシェイクスピアの個人教授を受けたり、ディケンズ(大いなる遺産、二都物語など)、メレディス(エゴイストなど)を読み漁りましたが、再び英文学に対する嫌悪感から神経衰弱に陥り、精神病を患ったと勘違いした文部省によって帰国させられました。

帰国後、第一高等学校と東京帝国大学の講師となり生計を立てますが、教え子とのトラブルなどから精神的に不安的となり、妻とも別居状態へ。

しかし、高浜虚子(たかはまきょし)の薦めで文芸誌「ホトトギス」にて「我輩は猫である」を発表すると、これが評判となり続編を執筆したことによって漱石のなかに作家として大成することを望む気持ちが生まれ「倫敦塔」「坊っちゃん」を相継いで発表、人気作家となっていきました。

 

作家としての名声そして漱石の最期

1906年ごろになると、漱石の家には、若き小説家や翻訳家、学者が出入りするようになり、毎週木曜日に漱石との面会を行うようになりました。

後に「木曜会」と呼ばれたこの集まりの中には芥川龍之介(羅生門、蜘蛛の糸など)がいました。

1907年、漱石は教職の仕事を全て辞職して朝日新聞社に入社、職業作家として自立し「虞美人草」を発表しますが、神経衰弱は相変わらずでこの頃から胃痛に悩まされ始めます。

1910年、前期三部作の「三四郎」「それから」の三作目にあたる『門を執筆中に胃潰瘍で入院、伊豆へ転地療養しますが大量の吐血により一時危篤状態に陥ります。

その後に病状が持ち直すと東京に戻り、再び執筆活動を再開して「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」と後期三部作を世に出します。

1915年「道草」の連載を開始した頃には糖尿病も患っており、1916年「明暗」執筆途中に体内出血を発症して自宅で死去しました。

享年49歳、遺体は東京帝国大学医学部解剖室で解剖され、その際に摘出された脳と胃は大学に寄付され、脳は今も大学に保管されています。

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夏目漱石の妻・夏目鏡子

夏目漱石の妻は貴族院書記官長・中根重一(なかねしげかず)の長女・鏡子です。

わがまま一杯のお嬢様育ちで、朝寝坊はする、家事は不得手、漱石が出掛けるときに朝食を作らないこともしばしばあったと言われています。

その上に慣れない夫婦生活からヒステリー症状をおこし、投身自殺をはかったこともあったそうです(未遂に終わる)。

このため悪妻のイメージが付きまとっているのですが、神経衰弱を患った夏目漱石が鏡子や子供たちに暴力を振るう(ドメスティックバイオレンス)ようになり、周囲から離婚を勧められたときに、「嫌いで振るわれる暴力なら離婚もしますけど、病気によって振るわれる暴力は治るのですから離婚はしません」と言い切り、周囲の声を受け付けませんでした。

木曜会に集まる才能ある若者に物心両面で援助を惜しまず、漱石との間に2男5女をもうけた彼女が漱石にとって悪女であったとは到底思えないのはわたしだけでしょうか?

 

夏目漱石の死因

夏目漱石は作家として大成する以前から神経衰弱であり、精神的に不安定であったと言われています。

漱石20歳の頃に長兄・大助、次兄・栄之助を相継いで亡くし、4年後には三兄・和三郎の妻・登世とも死別しています。

漱石はこの登世に恋心を抱いており、このショックが漱石の精神に大きなダメージを与え、より深い精神不安にさいなまれたようです。

帝国大学在学中にもわずかな精神的動揺で神経衰弱や精神疾患を発病し、あげくには肺結核までも患っています。

長年に及ぶ神経衰弱が胃にストレスを与えて43歳の頃には胃潰瘍で入院、大量の吐血によって危篤状態となります。

この後に体調は持ち直しますが、49歳で亡くなるまでの間、胃潰瘍と神経衰弱に悩まされ晩年には糖尿病までも患い、落命することになりました。

夏目漱石が執筆した偉大なる作品

我輩は猫である

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」有名な書き出しで始まるこの小説が文豪・夏目漱石のデビュー作です。

文明中学校の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)が飼っている淡灰色斑入の雄猫が彼の回りで生活する人間の観察や哲学的思想に浸ったりするのを描写しており、飼い主・苦沙弥は教師で胃が弱くノイローゼ気味、漱石自身をモデルにしていると言われています。

最終話で主人公の猫がビールを飲み、水かめに落ちて出られなくなり溺死するのはいかにも漱石らしい話の終わらせ方と言える作品です。

 

坊つちやん

四国の旧制中学校に新卒で赴任することとなった東京の物理学校(現在の東京理科大学)出、血の気が多く無鉄砲な江戸っ子気質の主人公が赴任先で巻き起こす騒動を滑稽な描写で描いた、漱石の作品の中でもっとも多くの人に読まれ愛されている作品です。

主人公に名前がなく、語り手として使う手法は「我輩は猫である」と同様で、主人公の経歴や舞台設定などの作品背景は、漱石自身の教職時代の経験で描かれているようです。

一ヶ月あまりのわずかな赴任先での話として描かれており、漱石はわずか10日で書き上げたと伝えられています。

 

それから

裕福な家庭の次男に生まれ、何不自由なく生活している長井代助(ながいだいすけ)。

チフスで死んだの親友の妹・三千代に恋心を抱きながら、経済的に安定しない半人前の自身の生活を顧みて、彼女を安定した職業の銀行マンである平岡に委ねます。

しかし、平岡は結局三千代を幸せにすることはできず、その事を後悔した代助は三千代とともに残りの人生をやり直すため、父親に勘当され、友とも絶交、兄弟からも絶縁されてしまいます。

1909年に執筆された本作は、「三四郎」「門」とともに漱石の前期三部作をなしています。

1985年に名優・松田優作主演で映画もされています。

 

こころ

小説の語り手である「私」と海水浴場で知り合い、その後、交流が始まった「先生」。

先生が毎月訪れる友人の墓、私に語られる謎めいた言葉から推測される先生の過去、それを告白させようとする「私」。

父の病気で故郷に帰省していた「私」に届いた「先生」からの手紙。

これが先生の遺書だと気づいた私は東京へ戻り、手紙の中で語られる先生の過去から真相を知ることになる。

明治天皇崩御と乃木希典の殉死に影響を受けた漱石が人間のエゴイズム、倫理観を表現した作品と言われています。

「彼岸過迄」「行人」とともに漱石の後期三部作をなしており、新潮文庫の単行本は700万部を越える大ベストセラーとなっており、日本でもっとも売れている単行本となっています。

 

夏目漱石と正岡子規

1889年(明治22年)、漱石の執筆活動に多大な影響を与えた正岡子規と出会います。

子規が手がけた文集「七草集」の巻末に漢文で漱石が批評を書いたことから交流が始まり、漱石が松山の愛媛県尋常中学校に赴任した時は松山市内の下宿先・愚陀仏庵(ぐだぶつあん)で寝食をともにし、俳句に精進し多くの作品を残しました。

交流は子規が死去する1902年まで続き、漱石の優れた文才に最初に気づいたのも正岡子規だったようです。

漱石という号(ペンネーム)は「晋書」の故事「漱石枕流・石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す」から取ったもので、最初に漱石の号を使ったのが「七草集」の批評の署名であり、元々漱石というのは正岡子規が使っていたペンネームの1つで、これを譲り受けて使用するようになったのです。

 

夏目漱石まとめ

学生時代の国語授業で必ず耳にする夏目漱石の名前とその作品の数々。

単行本を手にして図書館や学校での休み時間に読みふけった方も多いことでしょう。

夏目漱石の身近に存在した人が数多くモデルとなっている小説から、社会的事件や大きな時代背景を持つ作品、人間の奥底に潜む葛藤やエゴを見事に表現した作品と多種多様な作品を世に送り出しました。

自身が危篤状態になるなど、死に対して独自の見解を認識していたと思われる漱石は、「則天去私・私心を捨て去り、身を自然の摂理にゆだねて生きて行くこと」を理想とし、その心境を作品の中に描いていきました。

夏目漱石作品の奥深さが一度読んだ程度では味わいきれないのは、漱石の持つ人生観があまりにも壮大すぎるからなのではないかと私自身は思っています。