芥川龍之介とは?死因や名言、作品などその激動の人生を解説!

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芥川龍之介は「芋粥」「藪の中」「地獄変」などを残した日本の小説家です。

致死量の睡眠薬を飲んで自殺し生涯を閉じました。

そんな芥川龍之介の生涯、死因、作品、名言を解説いたします。

芥川龍之介の生い立ち

芥川龍之介は明治25年(1892)現在の東京都中央区明石町である東京市京橋区入船町8丁目で牛乳製造販売業を営んでいた父・新原敏三と母・フクから長男として誕生します。

2人の姉がいましたが、長姉は芥川龍之介が誕生する前に6歳で亡くなっていました。

芥川龍之介が生後7ヵ月後頃に母・フクが精神を患ったため、東京市本所区小泉町にある母・フクの実家の芥川家に預けられます。

芥川家では伯母フキに養育されていましたが、芥川龍之介が11歳の時、母・フクが亡くなったため、叔父・芥川道章の養子となり、芥川の姓を名乗るようになりました。

明治31年(1898)江東尋常小学校に入学し、その後、府立第三中学校を卒業します。

芥川龍之介は中学校を卒業する際「多年成績優等者」の賞状を受けたため第一高等学校第一部乙類に入学しました。

同期入学者の中には、小説家の久米正雄(後の小説家)、松岡讓(後の小説家)、佐野文夫(後の日本共産党幹部)がいたとされています。

その後、大正2年(1913)東京帝国大学文科大学英文学科へ進学します。

芥川龍之介は在学中の大正3年(1914)に菊池寛、久米正雄とともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行しました。

この際、「柳川隆之助」という名前でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」を和訳したものを寄稿すると10月になると処女小説「老年」を発表します。

こうして作家としての活動が始まりました。

この頃、芥川龍之介は青山女学院英文科卒の吉田弥生という女性と交際し結婚を考えましたが、芥川家が結婚に反対したため、結婚の話はなくなりました。

 

作家として

大正4年(1916)芥川龍之介は『新思潮』(第四次)を刊行します。

この時、菊池寛、久米正雄、松岡譲らとともに刊行しました。

この創刊号の中に掲載された芥川龍之介の作品「鼻」は夏目漱石によって絶賛されます。

同年、卒論「ウィリアム・モリス研究」を提出し、東京帝国大学文科大学英文学科を卒業します。

同年12月、海軍機関学校英語教官を務めていた浅野和三郎が新宗教に入信するため辞職しました。

その海軍機関学校英語教官の後任に芥川龍之介は浅野和三郎から推薦され、海軍機関学校の嘱託教官となります。

その傍らで執筆活動は続け、大正6年(1917)5月、初の短編集となる『羅生門』を刊行します。

11月になると第二短編集『煙草と悪魔』も刊行しました。

大正7年(1918)慶應義塾大学文学部への就職の話を聞き履歴書を出すも、実現にはならず大正8年(1919)3月、海軍機関学校の教職を辞め大阪毎日新聞社に入社します。

大正8年(1919)3月12日、友人・山本喜誉司の姉の娘・塚本文と結婚しました。

同年5月には菊池寛とともに長崎旅行を行い、日本画家・近藤浩一路から劇作家・永見徳太郎を紹介されます。

また同年には海外視察員として中国へと旅立ち、7月に帰国すると紀行文「上海遊記」を記しました。

この旅行後から芥川龍之介は、神経衰弱、腸カタルなどを患うようになり大正12年(1923)には湯河原町へ湯治を行います。

大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生すると病弱であるものの自警団に参加しました。

大正14年(1925)頃になると文化学院文学部講師に就任し、大正15年(1926)になると胃潰瘍、神経衰弱、不眠症などを患い再び湯河原町で湯治を行いました。

これまで、妻・文とは自身の弟・塚本八洲の療養のために別居していましたが、7月20日は妻・文、三男・也寸志と一緒に東屋の貸別荘「イ-4号」を借り暮らすようになります。

7月下旬になると親友・画家小穴隆一も隣の「イ-2号」を借りて住むようになりました。

 

芥川龍之介の最期

昭和2年(1927)1月、義兄・西川豊が放火と保険金詐欺の疑惑をかけられ自殺を図ります。

このことによって芥川龍之介は義兄・西川豊の遺した借金や家族の面倒をみなければなりませんでした。

同年4月、作家・谷崎潤一郎が「物語の面白さ」を主張するのに対して芥川龍之介は「物語の面白さ」は小説の質を決めないと反論しています。

この頃、芥川龍之介は秘書・平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂事件を起こします。

同年、7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた芥川龍之介は、精神科医・斎藤茂吉から貰った睡眠薬を大量に飲み自殺し、35歳で亡くなりました。

この芥川龍之介の自殺は社会に衝撃を与えたとされています。

死因

芥川龍之介は睡眠薬を大量に飲み自殺したとされていますが、山崎光夫さんは、芥川龍之介の主治医であった下島勲が残した日記から、芥川龍之介の死因は青酸カリによる服毒自殺であったと推測しています。

 

作品

芥川龍之介の作品は短編小説が多く知られています。

芥川龍之介の作品は初期、中期、晩年で全く異なった特徴を持つとされています。

 

初期作品

「羅生門」「鼻」「芋粥」などの作品は説話文学を典拠とされた、歴史物、またキリシタンを題材にしたキリシタン物、また児童向けの作品「蜘蛛の糸」「杜子春」などが有名です。

人間のエゴイズムを描き出した作品が多いとされています。

 

中期作品

芸術至上主義的な「地獄変」「トロッコ」などを残しました。

この頃になると長編小説「邪宗門」を執筆します。

 

晩年作品

晩年、自殺を図った芥川龍之介でしたので、この時期になると生死を取り上げた作品が多く残されました。

告白的自伝である「大導寺信輔の半生」「点鬼簿」などを残し、代表作「河童」は河童から見た人間社会を描きました。

 

名言

名言①
「人間は時として、満たされるか満たされないかわからない欲望のために一生を捧げてしまう。その愚を笑う人は、つまるところ、人生に対する路傍(ろぼう)の人に過ぎない。」

作品「芋粥」に記された言葉です。

名言②
「物質的欲望を減ずることは必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには精神的欲望も減じなければならぬ。」

作品「河童」に記された言葉です。

名言③
「天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心地のよい名声」を与えられることである」

作品「侏儒の言葉」に記された言葉です。

 

最後に

芥川龍之介は、生涯多くの作品を残し、その作品は多くの人たちに読まれてきました。

芥川龍之介の死の8年後、友人の文藝春秋社主の菊池寛が芥川龍之介の業績を讃え「芥川龍之介賞」を設立しました。

この芥川賞は今でも有名な文学賞として続き、多くの作家が目指す賞となっています。